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『テレビ未来遺産』月1回、ゴールデン、プライム帯で放送予定

番組詳細*壮絶…なぜ私はやめたのか?伝説の引退SP
あの選手の引退には世の中の記憶とは違う壮絶なドラマが隠されていた!

2013年10月14日(月・祝)よる9時〜10時54分放送
ナビゲーター/語り:小栗 旬
スポーツ史に残る輝かしい実績を残した選手たちの“引き際”にスポットを当て、その引退劇の真相を解き明かすドキュメンタリー番組の第2弾。
世の中に知らない者がいないほどの名選手でも、彼らの最終打席・最終試合を最後まで知っている者はどれだけいるだろうか。
この番組はそんな伝説的な人物の“最後の舞台”にスポットを当て、その背景にあった人間ドラマをクローズアップする。
レジェンドたちの“引き際”── それは一体どのようなものだったのか!?
掛布雅之/「死ね…やめちまえ!」 罵声と闘った“ミスタータイガース”

長嶋茂雄に憧れ、プロを目指した掛布雅之。
1973年、阪神にドラフト6位で入団すると、プロ6年目には球団史上最多48本の本塁打を放ち、王貞治を抑えて本塁打王のタイトルを獲得。それから、阪神の熱狂的なファンから“ミスタータイガース”と呼ばれるようになった。しかし、成績不振に陥るとその批判は凄まじく、激しいバッシングを受けた。1984年7月、左手小指を骨折するも、隠して試合に出場し続けた。それは、「熱狂的なファンを見返したい」という気持ちを常に持っていたからだった。

1985年、掛布は打率3割、40本塁打、108打点の活躍で、阪神を21年ぶりのリーグ優勝に導く。そして、球団史上初となる日本一の快挙を成し遂げた。だが、優勝の翌年4月、死球で右手首を骨折して以来、掛布の成績は下降線をたどる。そして、1988年9月14日に、引退を発表した。
掛布は、ファンへの愛と同時に、憎しみを常に持ち続けてきた。そんな彼の引退試合には5万5千人ものファンが甲子園球場に押し寄せた。超満員のファンを目の当たりにした彼の心に去来した思いとは…。
津田恒美/“炎のストッパー” 原辰徳を引退に追い込んだ魂の一球

150キロを超える剛速球を武器に、闘志をむき出しにして相手に立ち向かう姿を“炎のストッパー”と形容された元広島東洋カープ投手、津田恒美。
1986年9月24日の巨人戦、津田はジャイアンツの4番・原辰徳に対し、真っ向勝負。原はフルスイングで立ち向かうが、ファウルした瞬間に左手有鉤骨を骨折してしまう。
後に原は、この時のことをふり返り、「事実上、この骨折でバッター原辰徳は終わりました」と語っている。
1991年、津田は前年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎え、ジャイアンツ戦に登板。しかし、大乱調のためわずか9球で降板し、敗戦投手となった。これが、自身にとって生涯最後の登板となる。

この試合の翌日、津田に悪性の脳腫瘍があることが判明。その後、手術を受け復帰を目指して闘病を続けるが、球団から任意引退とされてしまう。それでも再びマウンドに立つためリハビリに励むが、1993年7月20日、32歳の短い生涯を閉じた。登板した最後の試合で津田からタイムリーヒットを打った生涯最後の対戦打者は、奇しくもライバル原辰徳。
原に投じた最後の一球は、144キロのストレートだった…。
ヨーコ・ゼッターランド/私はアメリカ人?それとも日本人?日本代表になりたかった

米国人の父と日本人の母をもつ、ヨーコ・ゼッターランド。
彼女は6歳の時に母と日本に移り住み、名前は“堀江陽子”として暮らすことに。茶色い髪に瞳、話せるのは英語のみ。周囲の子供達に溶け込むのは難しく、心無い言葉をぶつけられた。しかも、当時の国籍法では、父が米国人の場合に日本国籍は取得することはできなかった。日本に住みながら外国人扱い。

そんな悲しい日々を救ってくれたのはバレーボールだった。いつしかオリンピックで日の丸を背負うことを夢見るようになる。そして、その夢を叶えオリンピックに出場。だが、彼女が背負ったのは日の丸ではなく星条旗。アメリカ代表としてコートに立ったのだ。そして、選手として絶頂期に国籍によって突然引退に追い込まれてしまった。
数奇な運命に翻弄され、国籍を変えてまで夢を追った。その波乱に満ちた女の人生とは…。

スタッフ

  • 総合プロデューサー 菊野浩樹
  • プロデューサー 後藤隆二
  • 総合演出 飯田晃嘉
  • スタジオ演出 大久保徳宏
  • 製作著作 TBSテレビ

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