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お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生。このコーナーでは毎週、そんな山田先生に“気になるシーン”について解説していただきます。

眼鏡をかけてみている初音。「よう、見えりんす」

山田先生

もちろん昔も「目の悪い人」というのは存在したわ。眼鏡を初めて日本に伝えたのは、キリスト教宣教師であるフランシスコ・ザビエル。ザビエルが周防(現在の山口県にあたる)の大名・大内義隆に贈ったものが、日本最古のものだと考えられているの。そこから少しずつその存在を知られ、ヨーロッパや中国から輸入されはじめた眼鏡だけど…当時は高価でとても庶民の手に入るような値段ではなくてね。大名レベルの人たちしか手に入れることができなかったの。そうそう、あの徳川家康も眼鏡を持っていたことで有名よね。
ほどなくして国内でも、外国でその技術を学んだ人々によって生産が始まり、だんだんと庶民の手にも届くような価格のものが流通するようになっていったんだけれど、今のようにそれぞれの視力に合わせたものなんてなかったから、けっこう不便だったんじゃないかしら。

第6話で、刺客から追われた仁先生と咲さんが神社に逃げ込んだところ、たくさんカップルがいましたよね。江戸時代は神社でデートするのが主流だったのでしょうか?

山田先生

当時の人々の楽しみっていうのは、神社やお寺へお参りにいくことだったの。贅沢を禁止されていた江戸の人たちは、「遊びにいく」となると問題だったけれど、神様仏様にお参りに行くのなら誰も文句は言えないでしょう(笑)?ただ、神社やお寺など大勢の人が集まるところには、見世物小屋や茶店なんかもあるわよね。”お参りついで”にそこで飲み食いする分には多めにみてもらえることを逆手にとった人々は、「お参りに出掛ける」と称して楽しいひと時を過ごしていたのよ。デートだって、歌舞伎なんかを見に行ったら値段も高いし目立っちゃう!大勢の人で賑わうお寺で待ち合わせならバレにくいし、神社やお寺の周りには「待ち合わせ専門」のお店や「ラブホテル」のような場所もあったんだから。
浅草、深川、湯島、上野、芝・・・ほら、昔から栄えている場所を思い浮かべてみても、やっぱりみんな大きな神社やお寺があるでしょ(笑)?

野風花魁が美しくて惚れ惚れしたのですが、廓の廊下で草履を履いていたのが気になりました。やはり最高位の花魁ともなると、他の女郎とは別格ということなんでしょうか?また、襖や障子を開けるときも、野風は立ったまま豪快に開けています。これも、花魁だから許されていることなのでしょうか?

山田先生

まず足元の話をすると、そもそも足袋を履くようになった時期は男女で異なるの。男性達は鎌倉時代から鎧甲冑の時だけ“足を痛めないように”皮製の足袋を履いたりしていたけれど、女性には長いこと足袋を履くという習慣がなかった。ところが江戸の中期になって、江戸城内で年寄りを労い”許可を取れば”足袋を履いてもよいということになったの。そこからみな、いろいろと理由をつけて足袋を履くようになり、足袋の習慣が一気に広まっていったんだけど…粋にこだわる遊女たちは「足袋を履くのは年寄りのすることだ」と、素足の習慣を捨てなかった。だから、原則素足で過ごしている彼女たちなんだけど、やっぱり冬は寒いでしょう?それで、とても矛盾していることなんだけれど“室内スリッパ”代わりに廓内の廊下等ではああやって草履を履いていたの。
「襖を立ったまま開ける」というのも、吉原の遊女独特の風習。咲や栄さんを見てもわかるように、武家等のお作法から言えば両手で開け閉めするのが常識なんだけれど、殿様が自分で襖を開けたりしないように“お姫様扱い”されている花魁たちも基本的には専属の禿が開けてくれるもの。嫁ぎ先でついそのクセが出てしまい、姑から「これだから廓育ちは…」とイヤミを言われたりする一因にもなったそうよ。

山田先生への質問は締め切りました。たくさんの質問をいただき、ありがとうございました。