カンボジア日記 (2001年11月2日)


今週は毎日夜に雨が1〜2時間ほど降った。こうなるとブッシュカッターが使えなくなってしまう。地雷原までの道が泥だらけになり、柔らかくなった土に車輪がつかえて動かなくなる可能性があるからだ。このため除去スピードはかなり遅くなったが、それでもトゥール・プラサットの除去統計値は一日あたり20〜25平方メートルだ。

エアム・グネムという名の地雷除去員がいる。グエムは47歳で7人の子持ちだ。長男は去年結婚し、3人の子供は学校に通い、残りの3人は家にいる。エアム・グネムは1972年から1998年にかけ、クメール・ルージュの指揮官として417師団第5大隊に所属していた。基地はコンポントム州にあったが、ほとんどの時間はタイ国境付近のダンレク山の密林で、クメール・ルージュのタ・モク司令官と共に過ごしたそうだ。1975年にクメール・ルージュがアメリカ政府支援のクメール共和国からプノンペンを奪った後、グエムを含むクメール兵20人が即席地雷の製造法を学びに中国に一ヶ月間派遣された。

クメール・ルージュが1993年にUNTAC支援のカンボジア総選挙を拒絶した後、グネムはタ・モクの指示のもと、仲間とともにアンロンベン(現在のHALO作業地区)のスラ・チューク村で即席地雷の製造法を指導した。この時作られた地雷はすべて政府軍との戦いにおいてアンロンベンおよびトラパイン・プラサット地区に埋設された。さらにグネムは、戦闘中はトラパイン・プラサット地区パヴ村に通じる道に、100個以上の対人地雷と対戦車地雷20個を埋設したことを告白した。このうちいくつかの地雷はすでに除去されている。グネムは毎日100個の地雷を作るよう命じられ、製造数がこれに満たない場合は罰せられるか殺される、と言われたそうだ。

1998年の新政府樹立の後、クメール・ルージュ部隊から離れたグネムはカンボジアのティー・バン国防相から3000バーツ(US$120相当)を受け取り、アンロンベン地区スヴァイ・チェク村で農業に従事するようになった。そして2000年6月にHALOの地雷除去員として雇われた。彼はこれまでに地雷23個と不発弾5個(このうち一個はMBV78a1)を発見している。エアム・グネムは大きな笑顔を浮かべて私にこう言った。「HALOの地雷除去プログラムで働き始めてから牛4頭、家、自転車を手に入れ、家族のために貯金をすることもできたよ。良い仕事を与えてくれたHALOにとても感謝している。」





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