デルフトの巨匠たち
ヨハネス・フェルメール(1632-1675)
Johannes Vermeer
アムステルダム国立美術館
The Little Street
©Rijksmuseum, Amsterdam
1658-60年頃
油彩、カンヴァス/Oil on Canvas
53.5 x 43.5 cm
ヨハネス・フェルメールは、17世紀に活躍したオランダ画家の中でも最も評価の高い画家の一人です。
1632年に絵画の売買を趣味とする絹織物職人の息子として生まれ、自らも絵画の売買に熱心で、その生涯の全てをデルフトで過ごしました。
現在フェルメールが描いたと判明している作品は、わずか36点(*1)しかありません。宗教画が多い初期の作品には、ユトレヒトのカラヴァッジョ派の影響を見ることができます。
しかしこれ以降の彼は、1人か2人(それも通常は、女性です)の登場人物によって構成される繊細な室内画を制作しました。親しげな様子を描いたこれらの作品に登場する人物は、手紙を読んだり、首回りの襟を正したり、牛乳を注いだりなど、日常生活の作業に熱心に没頭しています。
またフェルメールの作品では、光が窓から差し込んでくる様子が多く描かれています。彼は光が物にあたっていく様子を描く達人でした。
1632年に絵画の売買を趣味とする絹織物職人の息子として生まれ、自らも絵画の売買に熱心で、その生涯の全てをデルフトで過ごしました。
現在フェルメールが描いたと判明している作品は、わずか36点(*1)しかありません。宗教画が多い初期の作品には、ユトレヒトのカラヴァッジョ派の影響を見ることができます。
しかしこれ以降の彼は、1人か2人(それも通常は、女性です)の登場人物によって構成される繊細な室内画を制作しました。親しげな様子を描いたこれらの作品に登場する人物は、手紙を読んだり、首回りの襟を正したり、牛乳を注いだりなど、日常生活の作業に熱心に没頭しています。
またフェルメールの作品では、光が窓から差し込んでくる様子が多く描かれています。彼は光が物にあたっていく様子を描く達人でした。
*1)フェルメール作品点数には何説かあるが
本展監修者の見解に基づき36点とした。
本展監修者の見解に基づき36点とした。
カレル・ファブリティウス(1622-1654)
Carel Fabritius
1652年頃
油彩、カンヴァス
/Oil on Canvas
15.4 x 31.6 cm
《楽器商のいるデルフトの眺望》
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
ロンドン・ナショナル・ギャラリー
A View of Delft, with a Musical Instrument Seller's Stall
©The National Gallery, London
ファブリティウスの名前の由来は、ラテン語で「職人」という意味の ”faber” からきています。自らこの名を選んだ彼の最初の職業は、大工だったという説もあります。しかし彼は、おそらくビームスターで教師をしていた父から、絵についても学んでいたと言われています。
1641年、ファブリティウスはアムステルダムのレンブラント工房に入り、レンブラントの助手を兼ねた弟子となりました。彼はこの工房で数年を過ごします。1645年に独立した彼は、最初はビームスターで、1650年からはデルフトで画家としての活動を続けました。そして1654年、デルフトの1/4を焼いた火薬庫の大爆発の犠牲になり、彼は命を落としました。ファブリティウスは、レンブラントの弟子の中でも最も才能がある弟子の一人といわれていました。彼は肖像画を描いたほか、トロンプ=ルイユ(騙し絵)の表現法を確立しました。
1641年、ファブリティウスはアムステルダムのレンブラント工房に入り、レンブラントの助手を兼ねた弟子となりました。彼はこの工房で数年を過ごします。1645年に独立した彼は、最初はビームスターで、1650年からはデルフトで画家としての活動を続けました。そして1654年、デルフトの1/4を焼いた火薬庫の大爆発の犠牲になり、彼は命を落としました。ファブリティウスは、レンブラントの弟子の中でも最も才能がある弟子の一人といわれていました。彼は肖像画を描いたほか、トロンプ=ルイユ(騙し絵)の表現法を確立しました。
ピーテル・デ・ホーホ(1617-1683以降)
Pieter de Hooch
アムステルダム国立美術館
Woman with a Child in a Pantry
©Rijksmuseum, Amsterdam
1658年頃
油彩、カンヴァス/Oil on Canvas
65.0 x 60.5 cm
ピーテル・デ・ホーホは、1617年にロッテルダムで、タイル工とその妻との間に産まれました。彼は画家としての活動をデルフトで始めます。当時の通例どおり彼には画業の他にも副業があり、リネン商人の助手としても活動していました。デ・ホーホは室内で楽しげに語り合う人々で構成された装飾的な室内画を専門としていました。窓や別の部屋と通じるドア、遠くの部屋の風景などが彼の作品には多く登場しました。他のオランダ画家と同じように、デ・ホーホの室内画には多くの隠喩がこめられています。
1661年にアムステルダムに移り住んで以降、デ・ホーホと彼の周辺の画家たちは、優美で瑞々しいスタイルに傾倒していきます。
晩年、デ・ホーホはアムステルダムの精神病院で亡くなりました。彼にいつ死が訪れたのかは分かっていません。
1661年にアムステルダムに移り住んで以降、デ・ホーホと彼の周辺の画家たちは、優美で瑞々しいスタイルに傾倒していきます。
晩年、デ・ホーホはアムステルダムの精神病院で亡くなりました。彼にいつ死が訪れたのかは分かっていません。
ヤン・ファン・デア・ヘイデン(1637-1712)
Jan van der Heyden
《アウデ・デルフト運河から見た
旧教会の眺望》
オスロー国立美術館
Architecture and Design, Oslo
旧教会の眺望》
オスロー国立美術館
The Oude Delft Canal
and the Oude Kerk, Delft
©The National Museum of Art,and the Oude Kerk, Delft
Architecture and Design, Oslo
1675年頃
油彩、パネル/Oil on panel
45.0 ×56.5 cm
ヤン・ファン・デア・ヘイデンは、17世紀オランダを代表する都市風景画家の一人です。また彼は消火活動にも興味をもっていた人物でもあり、消防ホースの発明者としても多くの人に知られています。
画家としてのヤン・ファン・デア・ヘイデンは、細部まで描きこんだ穏やかな風景画で有名です。作品の細部にまで及ぶこだわりは、彼のテクノロジーへの興味の表れだといえるでしょう。ファン・デア・ヘイデンの作品は、本物そっくりのように見えますが、彼は作品の構成のために、描く対象を調整しています。彼が描いた作品には、建築学上ありえない作品などもあります。
画家としてのヤン・ファン・デア・ヘイデンは、細部まで描きこんだ穏やかな風景画で有名です。作品の細部にまで及ぶこだわりは、彼のテクノロジーへの興味の表れだといえるでしょう。ファン・デア・ヘイデンの作品は、本物そっくりのように見えますが、彼は作品の構成のために、描く対象を調整しています。彼が描いた作品には、建築学上ありえない作品などもあります。
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