この差って何ですか?

毎週火曜よる7時

過去の放送内容

2018年7月17日

(1)「一般的には『さん』付け」と「国会では『くん』付け」の差

(写真)

専門家:山村竜也(歴史研究家)


この差は…
対等な立場で議論するためか どうか
「くん」という敬称を作ったのは吉田松陰。役職や年齢で生まれる上下関係にとらわれずに対等な立場で議論するために「くん」付けで呼ぶ。

〇なぜ国会では「くん」付けで呼ぶのか?
敬称として「くん」を使うようになったのは、昔は議会が男性ばかりだったわけではない。
国会では、議会の規則によって「くん」付けで呼ぶことが決められている。衆議院の規則が書かれている『衆議院要覧』には「議員は、互いに敬称を用いなければならない。」とあり、『参議院先例録』には「議員は、議場または委員会議室においては互いに敬称として『君』を用いる。」と書いてある。そのため、衆議院も参議院にならい、敬称として『くん』付けをしている。

〇いつから議員を「くん」付けで呼んでいる?
明治23年に日本ではじめて行われた第1回帝国議会でも、すでに「くん」が議員の敬称として使われている。「第1回帝国議会貴族院席次表」を見ると、皇族には「殿下」という敬称が付いているが、それ以外の議員は議員の位に関係なく「くん」付けで記載されている。

〇なぜ明治の国会では「くん」付けで呼んだのか?
松下村塾で明治に活躍する若者を指導した吉田松陰がきっかけになっている。
身分制度がはっきりしていた江戸末期、長州藩(現在の山口県)では吉田松陰が若者に学問を教えていた。塾生には農民出身でありながら後に初代内閣総理大臣になった伊藤博文や、下級武士でありながら二度も内閣総理大臣を務めた山縣有朋、騎兵隊を創設した武家出身の高杉晋作、尊王攘夷運動のリーダー的存在となった医者の久坂玄瑞など、幕末から明治にかけて活躍し、新しい日本を築きあげた若者たちが数多く在籍していた。
当時松下村塾には武家出身の者から農民出身の者までさまざまな身分の若者が集まっていたため、対等な立場で議論すべき時にも、身分の差によって下の者は意見できないことがしばしばあった。その様子を見た松陰は、対等な議論ができるようにするため、敬称を統一することを思いついた。当時は目上の者から目下の者へは「殿」、目下の者から目上の者へは「様」と身分の違いによって敬称が分かれていた。そこで、松陰は身分に関係ない新たな敬称を作ることにした。そして生まれたのが「君」という敬称。
どんな身分の者にも共通する敬うべき人物と言えば「君主」「主君」。そこで、「君」と付けて呼び合えば、対等な立場になり、相手に敬意も込められると考えた。現在当たり前のように使われている「くん」という敬称は、吉田松陰が塾生の身分差の意識を作らせないために使用したものだった。

〇他にもある?!吉田松陰が流行らせた言葉
「諸君」という言葉も吉田松陰がきっかけ。大勢の塾生に呼びかける際に、松陰が「諸君」と呼ぶようになったことがはじまり。
また、一人称の「僕」も吉田松陰が流行らせた言葉。「僕」という字は「しもべ」とも読み、周りに対して自分がへりくだっているという意味がある。松陰が、自分をへりくだって言う言葉として使い出し、それが松下村塾で流行した。そして、明治の世の中でだんだん意味が変わっていって、現代のような使い方になっていった。

〇なぜ吉田松陰が作った「くん」という敬称が明治の国会で使われるようになった?
明治時代になって誕生した初代内閣総理大臣は松下村塾出身の伊藤博文だったため。明治23年、日本で初めての議会が開かれた際に、伊藤博文は松下村塾で身分の上下をなくすために使っていた「くん」ということばをそのまま使ったと言われている。

(2)「あぐら」と「正座」の差

(写真)

専門家:斗鬼正一(江戸川大学 社会学部 教授)

この差は…
すぐに立ち上がれない座り方か どうか
徳川家光が、家臣の足をしびれさせて自分を襲えないようにするため、「正座」を正しい座り方にした。

〇戦国時代の武士は、なぜ目上の人の前で「あぐら」をかいていたのか?
昔は「正座」の習慣はなく、「あぐら」が一般的だったから。

〇いつから目上の人の前で「正座」で座るようになった?
目上の人の前では「あぐら」でなく「正座」で座るように決めたのは、江戸幕府第三代将軍・徳川家光。
家光は、「あぐら」より「正座」の方が、背筋が伸びて美しく見える姿勢だという理由から「正座」で座るように決めたが、これは表向きの理由。実はもう一つの理由があった。

〇徳川家光が「正座」を正しい座り方に決めたもう一つの理由とは?
江戸時代初期、徳川家光は諸大名を1年おきに江戸に出向かせる「参勤交代」や、江戸城の増築をさせる「天下普請」を行い、諸大名に謀反を起こす財力を蓄えさせないための政策をとっていた。家光は非常に厳しい人物と思われていたが、実際は常に謀反を心配する小心者だった。
ある時家光は、今後自分の前に座る時には「あぐら」ではなく「危座」をするように定めた。この「危座」とは当時の罪人の座り方なのだが、実は現在の「正座」と同じ。長時間座らせて苦痛を与え、罪を白状させるための座り方だった。
家光は幼い頃、教育係の春日局に怒られた際に「危座」をさせられた。しばらく「危座」をした後に足がしびれてすぐに立ち上がれなかった経験を覚えていた家光は、家臣に「危座」をさせれば仮に自分を襲おうとしてもなかなか立てないため、急に襲われる心配がないと考えた。そして、家臣の足をしびれさせて自分を襲えないようにするため「危座」を正しい座り方にした。

〇「正座」と呼ぶようになったのはいつ?
「危座」が「正座」と呼ばれるようになったのは、明治時代になってから。明治になり、「危座」という呼び名は印象が悪いことから、「正しい座り方」と書いて「正座」と呼ぶようになった。その後、「正座」は学校教育でも取り入れられ、目上の人の前では「正座」で座ることが一般的になった。

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