まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生。このコーナーでは毎週、そんな山田先生に“気になるシーン”について解説していただきます。
「先生。知らねぇのかよ!?新門辰五郎!泣く子も黙る辰五郎親分だよ!」
新門辰五郎とは、江戸時代後期に実在した有名な火消しの親分。もともと下っ端火消しからスタートした彼は、町火消『を組』の頭に気に入られ、頭の娘と養子縁組して組の後継者となったの。でもある日、『を組』が格の違う大名火消のある組と喧嘩をして、死傷者を出してしまったことがあってね。その責任をとって佃島(今でいう刑務所のようなところ。ここでは労働することによって罪を償う)に送られてしまったの。ところが、辰五郎が牢に入っているときにたまたま火事が起きて、囚人たちを的確に指導して火を消したことが表彰されてね。特赦された後には、多数の火事場で功績を挙げるとともに、一橋慶喜(=徳川慶喜。のちの徳川家最後の将軍)とも知り合って、その警護に就いたりして一躍その存在を知られるようになったの。当時、町人なのに“次期将軍候補”の家来のように振る舞って、武士並の待遇を受けている人なんて他にはいなかったから、きっと珍しい存在だったんでしょうねぇ。そして、当時の江戸一の繁華街・浅草にできた新しい門の番人になったことから「新門」を名乗るようになった辰五郎は、さらにその勢力を増し、そのあたり一帯を取り締まる有力者へとのし上がっていったの。ちなみに、当時の浅草を管理していたというのは、今でいうと新宿・歌舞伎町一帯を仕切っているぐらい、すごいことだったんだから!
建物から建物へ、次々と広がっていく火。延焼を防ぐべく、家屋を取り壊している火消したち。
「火事と喧嘩は江戸の花」などとも言われるように、江戸では平均して“10年に一度”ぐらいは江戸の三分の一ぐらいの地域を焼き尽くすほどの大火が発生していました。このコーナーで以前お話した通り、“大きな火は原則夕刻の6時以降、使ってはならない”という決まり事があったとはいえ、あの時代は電気もなくて裸火が主流だからねぇ。行灯(あんどん)が倒れたり、火鉢から障子に火の粉が飛び移ったりなんてことは日常茶飯事だったし、放火なんかも多かったのよ。だから、江戸に暮らす人たちは“宵越しの金は持たない”主義でね、いつ火事が起こってもいいよう、焼けることを前提に日々生活を営んでいたの。
金持ちはというと、大事な借用書や帳簿をたくさん持っているんだけれど、そういったものは紙で出来ているし、重いから持っては逃げられないでしょう?だから、火事が起きたときの対処法は常に考えてあって、土蔵(※火に強い)を持っている人たちはそこへ大事なものを詰め込んで、中に酸素が入らないよう小窓や扉の隙間に泥や味噌を塗って保管したり、“墨で書かれた紙は水に滲まない”ことを応用して井戸の中に帳簿を放り込んだりして火事をしのいだのよ。
咲「母上。お話とは」栄「あなたに縁談が来ております」
当時の女性の適齢期は、だいたいいくつぐらいかって?
昔は母体が子供を産めるようになったら=結婚できる年齢になったと考えられていたから、だいたい15歳ぐらいじゃないかしら。晩婚化が進んでいる現代社会では考えられないことだけど、18歳でもちょっと行き遅れぐらいの感覚ね。女の子が初潮を迎えると、「無事うちの娘も大人になりました」という意味でお祝いをし、お赤飯を炊いて親戚やご近所さんに配るの。そうすると、「あら、あちらの娘さんにいい人いないかしら」と、周りが縁談を持ち込んでくるというわけ。
庶民は男女間関係なく寺子屋に通わせるけれど、咲さんのようなお武家の娘さんは乳母かお母さんが教育するものだから、幼なじみなんて存在もいないのが当たり前。そもそも兄弟や親戚以外の男の人と接触する機会がまずないから、当然お見合い結婚が主流なのよ。特に、昔の結婚とは“本人同士がどうこう”じゃなくて、家と家の問題だったから、家同士が交わす書面にも、本人たちのプロフィールなんて一切無し!“親戚に誰がいるか”ということが一番重要で、親同士が互いの家系を気に入れば即、縁談はまとまったんだから。
山田先生への質問は締め切りました。たくさんの質問をいただき、ありがとうございました。