コンテンツへジャンプ

ここからコンテンツです

お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生。このコーナーでは毎週、そんな山田先生に“気になるシーン”について解説していただきます。

張見世の中に居並ぶ熱帯魚のような遊女たち

山田先生

あんなにカビの生えたものをたくさん集められたなんて、昔は湿度が高かったのかって?そうねぇ…今と昔では建物の材質も違うし、乾燥機や暖房器具の有無もあるからなんとも比べようがないわよね。だけど、梅雨の時期や冬になれば、当然床下や納屋の奥などに自然とカビが大量発生していても不思議なことではないと思うわ。それに、当時は頻繁に洗濯をする習慣がなかったから、着物にカビが生えやすい状態にあったことも確か。本来着物というものは、すべての糸を解いて、洗って、板に貼って乾かして、再び縫って仕立てるというのが正しい洗濯の仕方なの(この工程を行うと、少なくとも4日以上の日数を要するそう)。天気が悪いと着物を干すことができないし、悪天候を理由に汚れた着物がそのまま長期保管されているというケースも考えられないことじゃないから、わりと簡単にカビの生えた衣類を集めることができたんでしょうね。

3話までは、仁先生が丈の足りていない着物をまとっていましたが、当時の人たちは身長が低かったのですか?

山田先生

吉原に女郎以外の女性が出入りする場合には、必ず『大門切手』というものが必要だったの。なぜなら吉原には、“女性は一切、門の外に出られない”という決まりがあったから。これは、女郎が逃げ出すトラブルを防ぐためね。
『大門切手』を発行しているのは、吉原内の町名主(今でいう“自治会長”のような存在)。昔は「免許証」のように個人の身分を証明するものがなかったから、ここへどういう理由で、どんな年恰好(ほくろの有無など身体的特徴も明記)の女性が立ち入るのか、その都度申し入れる必要があったってわけ。
女郎たちが吉原の外に出られる時といえば、お金持ちに身請けされるか、(病気にかかったり等の理由で)稼げなくなり追い出されるか、年季が明けるかのいずれかの理由以外にはないわ。だって、大抵の女郎たちは家族に売られて吉原へやってくるんだもの。親が死にかかっていようが、連絡すら来ないという場合が多いのよ。

江戸時代って、女性は下着を履いていなかったと聞きました。本当ですか?

山田先生

確かに江戸時代は、ろうそくや行灯(あんどん)、かまどの消し忘れ等で火事の多かったことは事実ですが、一般家庭でも油を使った「天ぷら」や「揚げ出し豆腐」などの料理を作ることは禁止されてはいませんでした。ですが、江戸の町には「大きい火を使ってよいのは原則夕刻の6時まで。ただし、風の強い日、将軍が江戸城から外出する日は火を使ってはならない」という決まりごとがあったのも、これまた事実。だから、お風呂も6時以降には焚くことができなかったし、お米も朝のうちに夜の分まで炊いておいて、おひつで保管していたのよ。

山田先生への質問は締め切りました。たくさんの質問をいただき、ありがとうございました。