“夢”エピソード|TBSテレビ:夢の扉+

1月17日放送の寝たきりだけど社長やってます、とても心に響くものがありました。

私は今年還暦を迎えるオバサンで、「もう」「いまさら」というのを自分の言い訳にして、自分の夢をあきらめようとしているからです。私の「夢」は映画を撮るということです。そのための脚本も書きました絵コンテも書きました、がそこからが進まない。私は三ない、だからです。
映画を撮るお金がない、撮る機材(カメラ等)がない、そして何より人望がない、これが一番だけど。
このナイナイづくしで、前へ進めない。撮ろうと思えば百万円あったら撮れるし(ってその百万もあらへんがな)何よりお金がなくても撮れる、といいますが、そうは言っても全くないではやはり無理でしょう。アカデミー賞ノミネートで賑やかしくなる季節になると、あの舞台に立つ、は夢のまた夢、でもやっぱり映画っていいなと思う。
死ぬまでに一本と思いながらもその一歩が踏み出せない、また一歩も踏み出さないままに終わっているのです。まあいつの日にか。

まだ夢から生まれてもない夢、だけど1月17日の放送を見て思うところがあったので投稿しました。
読んでいただけたなら、それだけでありがたいです。
女性(59)

要求されているような夢ではないかもしれませんが、僕はこの番組で様々な夢を追求する主人公の物語を観て芽生えた夢があります。
それは音楽や演劇、CG映像と朗読などあらゆる表現を1つの舞台で表現するグループを作ることです。
僕自身音楽をやっていて、自作の曲も何曲かあるのですが、その音楽を他の表現の媒体とともに表現したらどうなるのだろう。と疑問に感じたことがきっかけです。
バンドという形態で活動することに囚われていたのですが、あくまで演奏を表現の主体にするのではなく、あるものを表現する上での1つの表現という形で映像クリエイターや役者の方々、ダンサーの方々と1つの舞台を作りたい。
そう思っています。
漠然とした夢であり、この企画で要求されているような夢ではないかもしれませんが、これが僕の夢です。
男性(19)

私は中学生の頃、自身の怪我をきっかけに柔道整復師を目指すことを長年夢見てきました。
高校を卒業して上京し、柔道整復師の専門学校に入学し3年が経ちます。
つい3年前の話ですが、祖母が肺癌のため他界しました。
祖母は、私が専門学校に入学すると国家資格取得後に「最初の患者になるんだ」「帰省してきたら接骨院を建ててやるんだ」そう言って応援してくれていました。
その半年ほど前から日帰りで出かけるのが好きだったのにほとんどなくなり、長年続けてきた畑もおろそかになっていたのです。
ここから考えれば気付いていただろうと思ってしまい仕方ありませんでした。

そんな時、2013年11月10日放送を見ました。泣きながら見た放送回でしたが”オーダーメイドのワクチン療法”から自身も接骨院レベルでの最高峰オーダーメイド医療を目指そうと思いました。そして、普段の治療の中で感じる少しの変化に気付き早期医療につなげたいと将来の夢を描きました。
今年3月に国家試験を控えています。

2016年1月24日放送回にて山中伸弥教授が仰っていた『頭よりも手を動かし 考えるよりも行動する』この言葉に心を引かれました。
私は柔道整復師になります。山中教授が仰った言葉は“外科医”としての言葉でしたが、私は“柔道整復師”としてこの言葉を胸に患者さんと向き合っていきたいと改めて思いました。

私の大きな夢は 《病院の各科の医師と多くの専門職(医師、看護師、薬剤師、ケアマネージャー、介護士など)の人間が一人の患者をケアする トータルライフケア》です。
男性(21)

私が“夢の扉”(“夢の扉+”になる前です)に出会ったのは、2008年ごろでした。
ちょうど、その年、学生時代から憧れていた臨床心理士ではなく、産業カウンセラーですが、カウンセラーの資格を取得。これから、自分がどのようにキャリアを重ねていこうかと考えていたときでした。
たまたま、番組をみて、出演者の最後のメッセージに、“ひとりでも多く〜したい”という言葉が書かれているのを発見。“ひとりでも多くの人が笑顔で働ける職場を作りたい”と、当時、携帯にあった、“夢の扉”のアプリに書いていました。

それから、8年。
2009年にキャリアコンサルタント取得後、アサーションやファシリテーションを勉強しています。
当時、福祉を仕事にしていた私は、社会教育を仕事にして、5年目になります。
当時と対象者が変わっただけで、仕事自体は、研修の企画・運営を中心に担当していますが、新たな夢は、心理と福祉の視点を社会教育に持ち込んで、ひとりでも多くの人が笑顔で暮らせるコミュニティーを作ること。今の職場にいられるのは、今年の3月までですが、これからも、それを目標に据えて、高齢者のキャリアの活用や、高齢者と子供をつなぐこと・ご近所力をつけることなどを目標にしていきたいと考えています。
そして、いつの日か、2008年の私が憧れたように、“夢の扉+”に出演して、視聴者の背中を押したいと考えています。
女性(39)

子どもの頃の夢を叶えて二十歳代でその職に就く者の多い中、子育てを通してもう一度新たな夢に向かってスタートのできる環境にとても感謝している。

学生運動真っ只中の時代、中高生時代を駿河台界隈で過ごし、自分の言葉で自分の思いを伝えることの大切さを感じていたが、何を目指して何を大学で学びたいのかを見失ない、好きか嫌いかで判断してしまう、易きに流れるだけの生き方をしていた。

好きな事と学びたい事がイコールにならず、なんとなく結婚し子育てをするうちに、子どもを通して改めて見た世の中は、視点が違うだけで景色も感じることもそれまで自分が知り得ていたものとは大きく違っていた。目が覚めたのは次女が入学した公立中学校の担任教師との出会い。否定せず、個として認め、担任として譲れないことはガンとして譲らない姿勢は、初めての担任とは思えない力強さがあった。

2012年10月。私は56歳になっていた。心理士で関わっていた学校の校長に「教職課程に編入したい」と相談し、人物評価をお願いした。働きながらの大学は本当に辛い。編入の課程履修とはいえ、そう簡単にはいかない。しかし今日まで辞めたいとは一度も考えなかった。
還暦の教育実習が待つ。諦めない。切り捨てない。そんな自分の姿を夢見ている。なぜなら夢の扉を開いた人たちは皆決して諦めないから。
女性(59)

埼玉県の高校卒業後進学の為上京、東京都、神奈川県で生活の基盤ができていました、52才の時急遽北条平家の家臣の本家筋である実家の後継者に指名され帰郷しましたが、集落は消滅危惧集落になっており、数年前の豪雪の際も7日孤立するなど住人達は行政から相手にされず座して死を待つ状況下でした。
スーパー公務員の地域再生の様子を拝聴し勇気を頂き、この集落にしかない観光資源を発見しましたので来年から世界中に発信する予定です。
男性(56)

仕事の関係で時々ですが拝見させて頂いています。
日本古来の伝統工食品の技の番組が好きで、先人達の志を受け継いでいる職人さんに憧れます。

自分は学生の頃から空手道をやっていて、特に入賞経験も無い無名の弱い奴ですが、好きでずっとやっています。
小さい道場をやっています。

先日、流れ星を人工的に作る女性の番組を偶々観て心に残りました。東大卒業されても自慢せず、何も知らないと言い切る力。
だからこそ人が集い力が結集する。
また何の価値も無い、夢や憧れだけの途方もない話を、知恵の結集でビジネスにしてしまう。感激しました。
今、空手道というツールを用いて先ずはうつの多い職場の活性化。それを通じて職員の様々な得意分野を用いての地域交流。

そして道場では1月30日に外国人客相手のイベントに出場します。好きな空手道を通じて、勝ち負けでない交流を広めたいです。
空手道って大概弱虫な人が始めるものですから。
子供も大人も元気になって欲しいです。 オリンピックの競技になれるといいです。
男性(48)

夢の扉+は、いつもテクノロジーの紹介のほかに、社会学や人生学みたいなものを知る意味でも、よく視聴させてもらっています。
最近、世界のほうでは財政破綻やお金や資源をめぐる喧嘩や戦争の話を深刻におもっています。

そんな中、自分の中で、できるだけお金を必要とせず金銭問題に触れないでシアワセに生活できるような夢を考えるようになりました。
かつて、昭和の初期のおじぃちゃんおばぁちゃんの世代には、空襲でなにもかも焼け野原になってしまった大都市になっていたりの中での不便な暮らしを強いられていることもたくさんあったとおもうんですが、そんな中でも、気が鬱みたいに病むこともなくシアワセに暮らせていた人たちもたくさんあったんだとおもいます。

たとえ貧乏でも、サッカーボールひとつで夢中になれるサッカー選手のような感性や、パソコンと世界中のインターネット共有をどこまでも飽きることなく無限大に楽しめるクリエイターやネットサーフィンのような感性など、いくらでも貧富無関係に平等かつ平和に喜びや楽しめるものをみんなで捜せたり考えたり充実感でやれるのが大きな夢として観つけられた気がします。
男性(29)

夢の扉+をみているといつも自分も頑張ろうと思えてきます。
ガソリンをもらえる感じです。自分はプロダーツプレーヤーを目指しています。
いろいろと悩むことや不安になるときがあります。
そんなときこの番組をみて信念を貫いている人たちの言葉や行動に奮い立たされています。
男性(21)

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