TBSテレビ・毎日新聞社2015年・戦後70年共同プロジェクト「千の証言」



[ 千の証言・投稿 ]
千葉県船橋市・田中和男さん(76)


国民学校の入学を翌日に控えた1945年3月10日の夜11時前後だったと思います。東京市亀戸で空襲に遭いました。

父親は長屋の班長だったため皆の面倒を見なければならず、母と2歳上の姉と44年生まれの弟と4人で逃げました。姉は学校で疎開を勧められましたが、母が「どうせ死ぬなら一緒に死にたい」と疎開をさせていませんでした。そんな姉は運動靴を持っていたのに、泡を食って雨の日用の木下駄を履き、「カラカラ」と音をたてて逃げていたのを覚えています。

消防小屋に逃げましたが、近くの小学校が「バリバリ」と音を立てて燃え始め、ここにいたら死ぬと、父親の会社があった大島に向けて南に急ぎました。途中、見失った肉親の名前を呼びながら必死に捜す人もいました。

川の土手を歩き続け、午前0時を過ぎた頃、野原の中央に防空壕を見つけました。人であふれ入れませんでしたが、入り口で一晩過ごしました。米軍は川のむこうの工場や会社をめがけて焼夷弾を投下していました。怖さ半分、花火のようできれいだなとも思いました。

その後、数日は父の会社の体育館のような場所でお世話になりながら、父を捜し歩きました。焼け死んだ人や「水」を求める人がゴロゴロいたが、見てみないふりをするしかありませんでした。「父親もダメかもしれない」と思っていたころ、3〜4日後の昼前に父親が体育館を訪れたときは嬉しかった。

家族5人が無事で本当にほっとしたのを覚えています。あの頃は7歳でしたが、記憶は鮮明です。


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