南極観測船「宗谷」を知ろう

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第6回:『奇跡の船』と呼ばれた「宗谷」の奇跡・その2

太平洋戦争が始まり、特務艦として測量業務を行った 「 宗谷 」。
最前線で戦い続けたにもかかわらず、なぜ奇跡的に生き残ることが出来たのか?
『 奇跡の船 』 と呼ばれるに至った経緯を紹介します。

「 ミッドウェー海戦 」 へ

昭和17年6月。太平洋戦争の分岐点となった、「 ミッドウェー海戦 」 が起こります。日本はこの海戦で、多数の空母や艦艇、航空機を失い大敗を喫します。「 宗谷 」 は、ミッドウェー攻略後、周辺港湾の測量業務を行うために待機していましたが、作戦失敗の報に接して、やむなく北方に退避しました。

「 ガダルカナル戦 」 へ

続く8月。滑走路建設の終わった南方のガダルカナル島にアメリカ軍が上陸。日本の守備隊は全滅し、占領されます。「 宗谷 」 は、陸戦隊員と上陸舟艇2隻積んで、「 逆上作戦 」 に参加すべく出港しましたが、「 明陽丸 」 がアメリカ軍の潜水艇に撃沈されたため作戦は中止となり、「 宗谷 」 は帰国命令を受けました。

「 ラバウル 」 へ

帰国した8月。「 宗谷 」 は第八艦隊に移り、ラバウルに戻ります。このころになるとラバウルは、昼夜問わずアメリカ軍の大型爆撃機の空襲を受けるようになり、連日対空砲火や迎撃する戦闘機との間に死闘が繰り広げられました。「 宗谷 」 も測量業務中に爆撃や機銃掃射を受けることが多くあったのですが、付近の艦船が大きな被害を受ける中、不思議に被害を受けることはありませんでした。

魚雷攻撃を受ける

昭和18年1月28日。ブカ島のクイーンカロラインという、泊地で測量中のこと。背後から忍び寄ってきたアメリカ軍の潜水艦に魚雷攻撃を受けました。発射された4本の魚雷は白い航跡を引いて猛烈な勢いで 「 宗谷 」 に突き進み、魚雷の爆発する音が立て続けに3回響き渡りました。しかし、不思議なことに 「 宗谷 」 は被害を受けませんでした。なんと、奇跡的にも不発弾だったのです。足の遅い 「 宗谷 」 は、自分の艦を傷つけないよう、水中をゆっくり進むパラシュート付の爆雷を投下しました。しばらくして、鈍い爆発音とともに周辺に油や空気が浮き上がってきました。これは潜水艦が撃沈されたことを示すものでした。「 宗谷 」 は、魚雷の攻撃をかわし、潜水艦を撃沈するという離れ業を成し遂げたのでした。

第八艦隊から、連合艦隊附属へ

昭和19年。「 宗谷 」 は、連合艦隊附属となります。2月17日にいたっては、合計9回、延べ450機による大空襲を襲われましたが、多くの艦船が目の前で撃沈されていく中、回避行動中に座礁して行動の自由を奪われたにもかかわらず、奇跡的にも大きな被害を受けませんでした。

続く、大空襲!

翌18日も 「 宗谷 」 は大空襲を受けました。この2日間で、トラック島は壊滅的な打撃を受け、艦船50隻、航空機270機、燃料タンク3基等地上施設、死者は600人を超えました。壮絶な空襲が過ぎ、静けさを取り戻したクラック島に、たった1隻生き残った 「 宗谷 」 が浮かんでいました。
艦に損傷は軽微で航行に支障がないと分かり、横須賀へと戻り、改装されました。

輸送船 「 宗谷 」 として

昭和20年。戦局はますます悪くなり、「 宗谷 」 は、日本近海に多発出没するアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃や艦載機による空襲をかわしながら、室蘭や八戸と横須賀を往復し、石炭や軍備品の輸送に従事しました。6月には、「 神津丸 」 「 永観丸 」 とともに、満州へむけて出港しますが、途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けました。しかしながら、「 宗谷 」 だけは雷撃をかわし、無事に満州へたどり着き、任務を果たすことができました。

「 ポツダム宣言 」 を受諾

昭和20年8月15日。日本はアメリカをはじめとする連合国の 「 ポツダム宣言 」 を受諾し、無条件降伏をしました。太平洋戦争の全期間を通じて常に最前線で戦い続けた 「 宗谷 」 は、奇跡的にも生き残って室蘭で終戦を迎え、23日に横須賀へ帰り着きました。

「 宗谷 」 引き上げとなる

戦争は終わりましたが、南洋諸島にも多数の日本人が残されました。アメリカ軍を中心とした連合国軍は東京に GHQ を設置し、在外邦人の引揚げについても10月1日使用可能な船舶をすべて動員して引揚げ業務に当たることを命じ、「 宗谷 」 も大蔵省に返還され、船舶運営会に所属する引揚げ船として働くことになりました。そして、「 船倉を改造し、応急の船室にしたり、戦後の甲板上にトイレや洗面所を増設したりするなど応急工事が行われ、南洋のヤップ島に向けて出港しました。
この頃、GHQ は 「 宗谷 」 をはじめとする “100総トン以上の日本船は連合軍の占領下にある” と、日の丸の旗を掲揚することを禁止。SCAJAP (日本商船管理局) の旗を揚げると共に、船腹には識別の SCAJAP 番号を大きく書くようにと指示しました。それに伴い、「 宗谷 」 は 「 S-119 」 と書くことになりました。「 宗谷 」 は休む間もなく、昭和23年まで引揚げ業務に徹しました。

海上保安庁の灯台補給船となる

(photo)

引揚げ輸送の任務を終えた「宗谷」は、特務艦時際からのグレーの軍艦色の船体を白帯の入った黒い商船風の塗装に改めました。太平洋戦争を生き抜き、引揚げ船として働き続けた「宗谷」はすっかり疲れ果てた様な姿でしたが、灯台補給船として使用可能と判断され、昭和24年12月12日付けで海上保安庁灯台部に移籍し、改装工事に着手されました。昭和25年4月、スマートな真っ白な船体にコンパスマークも鮮やかな海上保安庁の煙突マークを描いた、「灯台補給船LL-01宗谷」が誕生しました。「宗谷」は全国各地の灯台に物資を届ける灯台補給船として働くこととなりました。

思わぬ仕事が舞い込んだ 「 宗谷 」

灯台補給船として働いていた昭和29年。「 宗谷 」 に思いもよらぬ仕事が舞い込みました。敗戦後、アメリカ軍の占領統治されていた奄美諸島の日本返還が決まった際、日本のお金を島に運ぶ仕事をすることとなったのです。その額9億円!極秘任務を無事に終えた 「 宗谷 」 は盛大な式典が行われました。こうして5年半ほど灯台補給船として働いた後、昭和30年に南極観測に用いる船の話がにわかに起こったとき、耐氷構造の 「 宗谷 」 に白羽の矢が立ったのでした。

南極観測船 「 宗谷 」 となる!

昭和30年11月、正式に 「 宗谷 」 は南極観測船となることが決まりました。かくして、昭和30年12月24日、灯台部所属の灯台補給船から、第三管区海上保安部所属の巡視船に配置換えとなり、南極への第一歩を踏み出したのでした。

度重なるアメリカ軍の魚雷攻撃を生き抜き、『 奇跡の船 』 と呼ばれた 「 宗谷 」。
南極観測船となった 「 宗谷 」 は、昭和37年4月まで南極観測船としての役目を果たしました。

東京都品川区の東京臨海副都心にある博物館 「 船の科学館 」 はリニューアル準備のため、平成23年9月30日をもって展示を休止しておりますが、南極観測船 「 宗谷 」 に関しましては、現在も展示を行っております。お時間がございましたら、ぜひ足をお運びください。

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