毎週木曜日 よる9時54分から
第十三話
ほんとうに欲しいものは何なのか
よくわかってはいない
好きなひとのところへ走ってもいいと言われたつて
さて 誰のところに走つたものか・・・・・・
鼠じゃあるまいし
むずかしい書物のあちこちを齧るなんて!
お嬢さん お歩きなさい
風が匂うときは
ピノキオのように
あなたの生れた小さな島々
足が地についていないことなんか
てんで気にしないで
「茨木のり子全詩集」花神社刊
ある若い夫婦が、ある街へ旅に出ます。
妻・さちこ(市川実日子)は、そこで思いつく言葉をメモ紙に書きとめては、
夫・がく(古河耕史)のポケットに忍ばせます。
20年後の現在、さちこ(いしだあゆみ)は
同じ街を、ふたたび一人で旅します。
20年前に夫のポケットに忍ばせた、そのメモ紙の数々が
心に刻まれた記憶を映し出します。
詩人・茨木のり子さんの詩を原案にした
たった2分のショートストーリーです。
市川実日子
古河耕史
いしだあゆみ
|第一話 |第二話 |第三話 |第四話 |第五話 |第六話 |第七話 |第八話 |第九話 |第十話 |第十一話 |第十二話 |
第一話
あなたは もしかしたら
存在しなかったのかもしれない
あなたという形をとって 何か
素敵な気がすうっと流れただけで
わたしも ほんとうは
存在していないのかもしれない
何か在りげに
息などしてはいるけれども
ただ透明な気と気が
触れあっただけのような
それはそれでよかったような
いきものはすべてそうして消えうせてゆくような
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第二話
わたしのなかで
咲いていた
ラベンダーのようなものは
みんなあなたにさしあげました
だからもう薫るものはなにひとつない
わたしのなかで
揺れていた
泉のようなものは
あなたが息絶えたとき いっぺんに噴きあげて
今はもう枯れ枯れ だからもう 涙一滴こぼれない
ふたたびお逢いできたとき
また薫るのでしょうか 五月の野のように
また溢れるのでしょうか ルルドの泉のように
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第三話
眼
それは レンズ
まばたき
それは わたしの シャッター
髪でかこまれた
小さな 小さな 暗室もあって
だから わたし
カメラなんかぶらさげない
ごぞんじ? わたしのなかに
あなたのフィルムが沢山しまってあるのを
木洩れ陽のしたで笑うあなた
波を切る栗色の眩しいからだ
煙草に火をつける子供のように眠る
蘭の花のように匂う 森ではライオンになったけ
世界にたったひとつ だあれも知らない
わたしのフィルム・ライブラリイ
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第四話
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第五話
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第六話
僕はもてない あいつはもてるんだ
男が騒ぐとき
おもわず ほほえまされる
もてるという語の語源はなんだ
もてはやされるが ちぢまったの?
人に聞いたがわからない 辞書をひいても曖昧模糊
もてもてにもてるの実態は
軽佻浮薄の異性らに
ひや ひや ひや と言われるにすぎない
それでも言わずにいられない 物心ついてより
もてない もてて もてた もてる もてたとき
もてたら もてろ もてれ もてたか 大もて
七十をすぎたお爺さんまで
俺はもてないと歎いたりすると
かわゆくなってしまって困る
第七話
肉体をうしなって
あなたは一層 あなたになった
純粋の原酒になって
一層わたしを酔わしめる
恋に肉体は不要なのかもしれない
けれど今 恋いわたるこのなつかしさは
肉体を通してしか
ついに得られなかったもの
どれほど多くのひとびとが
潜って行ったことでしょう
かかる矛盾の門を
惑乱し 涙し
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第七話
肉体をうしなって
あなたは一層 あなたになった
純粋の原酒になって
一層わたしを酔わしめる
恋に肉体は不要なのかもしれない
けれど今 恋いわたるこのなつかしさは
肉体を通してしか
ついに得られなかったもの
どれほど多くのひとびとが
潜って行ったことでしょう
かかる矛盾の門を
惑乱し 涙し
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第八話
幼いころ
わたしは勇気りんりんの子供だった
大人になったら
こわいものなしになる筈だった
気づいたら
やたらに こわいものだらけになっていて
まったく
こんな筈じゃなかったな
よくものが見えるようになったから
というのは うぬぼれ
人を愛するなんてことも何時のまにやら
覚えてしまって
臆病風はどうやら そのあたりからも
吹いてくるらしい
通らなければならないトンネルならば
さまざまな怖れを十分に味わいつくして行こう
いつか ほんとうの
勇気凛凛になれるかしら
子供のときとは まるで違った
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第九話
憎しみが
愛の貴重なスパイスなら
それが少々足りなかった 二人のコックの調理には
で
こくのあるポタージュにはならず
二十五年かかって澄んだコンソメスープになりました
でも 嘯きましょう
おいしいコンソメのほうが はるかに難しい
そのつくりかたに関してはと
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第十話
姿がかき消えたら
それで終わり ピリオド!
とひとびとは思っているらしい
ああおかしい なんという鈍さ
みんなには見えないらしいのです
わたくしのかたわらに あなたがいて
前よりも 烈しく
占領されてしまっているのが
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第十一話
真実を見きわめるのに
二十五年という歳月は短かったでしょうか
九十歳のあなたを想定してみる
八十歳のわたしを想定してみる
どちらかがぼけて
どちらかが疲れはて
あるいは二人ともそうなって
わけもわからず憎みあっている姿が
ちらっとよぎる
あるいはまた
ふんわりとした翁と媼になって
もう行きましょう と
互いに首を締めようとして
その力さえなく尻餅なんかついている姿
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの
「茨木のり子全詩集」花神社刊
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第十二話
ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい靄だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と
「茨木のり子全詩集」花神社刊