(あおやぎ・たかし)
東京成徳短期大学助教授
昭和36年千葉県生まれ
専攻は平安文学および朗詠・披講
著書『日本朗詠史 研究篇・年表篇』(笠間書院)
CD『朗詠 全十五曲』(プロデュース)
歌会の再現(日本文化財団主催『和歌の披講』)
和歌をその場で作り、それを人々の前で披露する行事を、「歌会(うたかい)」と呼びます。この行事は、非常に古くから行われて来ました。『万葉集』には、「宴席の歌」として、さまざまな宴会の席で、季節や状況に応じた歌が参加者によって作られ、声のすぐれた人物がその歌を吟誦していたことが記録されています。平安時代に入ると、年中行事である公宴(曲水宴・藤花宴・菊花宴など)の際に歌会が行われましたが、これは、当時盛んだった「詩会」の形式にならったものでした。また、「歌合(うたあわせ)」というゲーム形式の歌会も流行し、左・右に分かれた方人(かたうど)がそれぞれの歌を出し合い、判者(はんじゃ)といわれる審判が優劣を判定して点数を争いました。これに対して、ふつうの歌会は、共通の題のもとに、多くの人々が和歌を詠み、それを下位の者から順に講師(こうじ)が読み上げてゆき、最後に、天皇陛下などの御製が披露される、という形式となっていました。「歌会」は、大井川行幸・舟遊などの臨時の行事や、子の日、観月、桜花宴などの季節の遊宴、そして、皇子・皇女御誕生後の五十日祝、百日祝等の祝賀の宴で盛んに行われました。また、多くの歌人たちも、文芸の場として個別に歌会を催すようになり、「月次(つきなみ)歌会」という毎月恒例の歌会が開かれました。現在、宮中で行われている「歌会始」は、年の始めの歌会として、鎌倉時代から断続的に行われ、室町時代の文亀二年(1502)からは毎年恒例となりました(「和歌御会始」といいます)。このほか、現在、京都冷泉家(れいぜいけ)でも歌会が行われています。
歌会では、あらかじめ題が決められている場合(兼題)と、その場で題が出される場合があります(当座)。兼題はあらかじめ参加者に通知されるので、それに合わせた歌を詠んで懐紙に書き、懐に入れておきます。当日は、文台の上に下位の者から懐紙を重ねて提出してゆき、「読師」(どくじ)と呼ばれる上席の貴族がこれを取り重ねます。読師はもっとも下位の歌から一枚ずつ懐紙を広げて文台に置きます。それを「講師」が一句ごとに区切りながら、一本調子で読み上げます。この声は「切声(きりごえ)」「指声(さしごえ)」などと呼ばれ、歌の内容が明確に聞き取れることを第一義とします。次に、「講頌」(こうしょう)と呼ばれる人々が、節をつけてこれを吟誦します。第一句の吟誦は一人で行う定めで、この役はのちに「発声」(はっせい)と呼ばれるようになりました。第二句以降は、発声を含めた講頌全員で繰り返し吟誦します。その回数は作者の身分に応じて異なります(現在は基本的に一回です)。臣下の歌の披露が終わると、懐紙が取り片付けられ、天皇陛下(もしくは皇族方)の御製が披露されます。あらたに御製読師・御製講師が指名されて、同じようにして読み上げますが、講頌の回数は大変に多くなります(七回がふつうでした。現在は天皇陛下が三回・皇后陛下が二回です)。講頌の終了後、陛下の御製は、当座の最上位の貴族が拝領して持ち帰る習慣がありました。
当座の題の歌会は、兼題の歌会のあとに、余興として行われるのが一般的です。また、歌会によっては、講師の読み上げや、講頌などが省略される場合もありました。
披講(江戸時代の教訓書)
「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、なにとなくえんにもあはれにもきこゆる事のあるなるべし」。藤原俊成(1114〜1204)が『古来風体抄』の序文に記したこの言葉は、和歌の本質が「うた」うものであることを見事に表しています。もともと、短歌形式は、上代の歌謡のなかから生まれてきたもので、はじめはもちろん節をつけて歌われていたと考えられます。『万葉集』のなかにも、職業的な「歌い手」と見られる「伝誦者」(大原真人今城・田辺福麻呂など)の記録があり、口頭で歌われていたことは明らかです。平安時代の和歌が、どのように詠じられていたのかははっきりしませんが、『源氏物語』や『枕草子』にも、和歌の一部を吟ずる記述が数多く見られますので、やはり当時の人々は、和歌を目で読むばかりでなく、耳からも聞いて鑑賞していたわけです。こうしたことは、歌を作る際にも、当然意識されていたことでしょう(たとえば、藤原定家は、生涯20回余りも講師をつとめています)。歌には、おのずからなる調べというものがあり、それは口に出して歌ってみてはじめて確かめられるものです。歌った時に引っかかりのあるような歌は、表面上欠陥はなくとも、やはりどこか散文的で、不自然なところがある、というのが、歌の実作や、吟誦にたずさわっている多くの人たちの意見です。
和歌披講譜
和歌披講譜(現在)
曲水宴の歌会(毛越寺)
現在、「歌会始」で行われているような短歌の披露の仕方を「披講」と呼びます。宮中の場合には、読師・講師・発声各一名および講頌四名で披講を行います。担当されるのは旧華族の方々のご子孫で、「披講会」(坊城俊周会長)という団体のメンバーの皆様です。講師の読み上げは、「黄鐘(おうしき)」という音(洋楽のラに相当)で一句を長くのばし、最後の所をやや上げて休止する、という形で進行します。句ごとの休止がとても長い(二息とも、三息と言われます)ので、講師が歌詞を忘れてしまったのではないか、と思われるほどなのですが、このことによって、歌の言葉が余韻をもって、よりよく吟味できるわけです。発声・講頌のふしは、「飛鳥井流(二条流・綾小路流)」と呼ばれるもので、甲調・乙調・上甲調の三種があります。甲調は比較的素朴な曲調で、だんだん下降してゆき、最後の音はほとんど聞き取れないほどです(上甲調はその完全五度上)。これに対して乙調は冒頭から音が変化に富み、そのまま高音へ移行するなどかなり音楽的な曲となっています。この三つの調子を組み合わせて、多くの歌の披講が単調にならないよう、バラエティを持たせているのです。これに対して冷泉家では、講師の読み上げのはほぼ同じですが、講頌の調子は「冷泉流」で、甲調ではなく、乙調が主となり、ここに「乙の乙」、「乙の甲」の二種類の曲調があります。冷泉流の乙調は、飛鳥井流のものとはかなり印象が異なっていて、スローで音変化も少なく、古雅な印象があります。また甲調は、冒頭で低音から高音へせり上がっていくような音変化があり、これも飛鳥井流とは異なっています。
左は、文永二年(1512)に書かれた綾小路流の和歌披講譜ですが、現在の宮中の和歌披講は、その下の譜面のようになっています。今回の雅子様ご出産を記念した歌会の披講も、これに順じて行わせていただきます。