世界陸上ドーハ

寺田的 世陸別視点 text by 寺田辰朗


女子100mハードル
12秒台の扉を開けた寺田明日香
ママさんハードラーになって10年ぶりの世界陸上へ
2019年10月3日(木) 00:15
第15回
女子100mハードル代表の寺田明日香(パソナグループ)は、まさに話題満載の存在だ。1つめは日本人初の12秒台(12秒97)を出した選手であること。2つめはドーハ大会が、2009年ベルリン大会以来10年ぶりの世界陸上出場であること。3つめは6年前の13年に一度引退したこと。4つめは引退後に結婚と出産、さらには7人制ラグビーで日本代表候補になったこと。そして5つめはチーム明日香を結成し、家族や周囲の人たちの力をエネルギーとしていること。
今の寺田なら予選通過は難しくない。前回の世界陸上ロンドンでは準決勝の12秒86までが決勝に進んでいる。寺田が目指している東京五輪標準記録の12秒84を出せば、信じられないことが起きるかもしれない。
日本人初の12秒台は踏み切り位置の変更で誕生
12秒97(+1.2)は9月1日の富士北麓ワールドトライアルで誕生した。会場の富士北麓競技場は標高が約1000m。準高地で記録が出やすいのは確かだが、2位に0.18秒の差をつけている。
13秒00(+1.4)の日本タイを出した8月のAthlete Night Games in FUKUIも、2位に0.16秒差。同じ2大会で13秒2台を連発した男子110mハードルの髙山峻野(ゼンリン)も、2位に大差をつけていた。
その一方で2大会の男女100m優勝者は自己記録ではなかった。ハードル男女2種目の日本新は、好条件もあったが選手の力で出た記録と解釈すべきだろう。
寺田に驚かされたことはいくつもあるが、一番は陸上競技に復帰9カ月で日本選手未踏の領域に入ったことだ。12秒台は寺田自身、13年の引退まで何度も挑んだが果たせなかった記録である。ブランクで休養期間ができたことや、ラグビーに取り組んだことがハードルにもつながった。そこも大きかったが、復帰後の寺田と高野大樹コーチの技術的な取り組みも12秒台には欠かせなかった。
2人はハードリングの接地時の姿勢(動き)を、世界レベルにすることを考えた。
「リード脚を降ろしたとき、体の重心ができるだけ前に出ていることで、走りにつながる動きになります。形としては右肩や右ヒザが、より前に出ている着地です。12秒6台より上の選手はみんな、そこが日本選手とは違います」と寺田。
そのためには踏切位置をハードルから遠くにする必要があった。日本選手権後は、目指す踏切位置にテープを貼って練習した。動きづくりのドリルも、距離を伸ばしたり縮めたりして工夫して行なった。
だが踏切位置を変更すると、踏み切った後の景色がまったく違って見える。引退前の寺田は自身の感覚を優先するタイプだったので、おそらく変更しなかっただろう。自分の動画もほとんど見なかった。だが今は動画を見て、客観的に良くないと判断できる動きは修正する。高野コーチも動画を活用する指導者だ。
踏み切り位置を遠くすることを、7月の実業団・学生対抗では「意識して少しはできる」ようになった。13秒07(+1.3)と自己記録に0.02秒差に迫った。8月のAthlete Night Games in FUKUIは「スタートは悪かったのですが、3台目から良い位置」で踏み切ることができ、13秒00(+1.4)の日本タイをマークした。3台目以降は「意識すればどうにかできる」という状態にもってきた。
そうして臨んだ富士北麓では、1台目までの入りを重点的に意識した。「スタートからバンと出て、1台目を遠くから踏み切る感じができました。ちょっとだけなんですけどね」
だが1台目のちょっとだけ遠い踏み切りが、12秒台の扉を開けることに成功したのである。
引退、出産、ラグビー
09年は13秒05を二度もマークし、12秒台が見えてきた。だが8月の世界陸上ベルリン大会は、予選で13秒41(+0.1)とまったく力を発揮できずに敗退した。よくいうところの<何もさせてもらえなかった><手も足も出ない>状態だった。
翌10年は広州アジア大会に出場した。13秒29(±0)の5位は力を出し切ったとは言えないが、シーズンベストも13秒10と力は維持できた。だが11年から故障が多くなりシーズンベストも13秒52、12年は13秒57と下降し、国内でも優勝争いに加われなくなった。
13年のシーズンベストは13秒81。6月の日本選手権で予選落ちした後に引退した。12秒台も、世界で戦うことも、まったくイメージできなくなっていたのである。
しかし私生活は順調で、陸連のイベントなどで時間をともにすることが多かった佐藤峻一氏と結婚して上京。長女の果緒ちゃんを出産(14年8月)後、16年から18年まで2シーズン、7人制ラグビーに挑戦した。代表候補合宿にも参加するなど有望視されたが、「直線しか走れなくて、止まれない、曲がれない、切り返せない。コンタクト競技の難しさ」を痛感していた。最終的には入院するほどのケガをしたことで断念。チームスポーツの場合、長期間のブランクはその選手がいないことを前提でチーム作りが進められる。
昨年、ラグビーを断念して陸上競技に復帰することを決断した。今年4月にレースに復帰すると、陸上関係者の予想を上回る速さで記録を上げ続けた。それが可能になった理由の1つに「ラグビーを経験したこと」を寺田は挙げている。
「他の競技を経験することで着目するところが多くなりました。陸上(トラック種目)では止まる動作はありませんが、ラグビーではいきなり止まったり、サイドに振ったりします。今まで考えつかなかった体の動かし方をしました。それによって筋肉のどこに、どういう力がかかり、どういう反応を筋肉がするか、わかるようになりました。視野が広がった感じですね。それによって走りもハードリングも、この動きをしたいとイメージすることで、なんとなく以前とは違う動きができます」
陸上競技に生かすことを考えて取り組んだわけではないが、ラグビーをやったことが12秒台実現の1つの要素となったと推測できる。
10年前との違いは「図太さ」
ドーハでの目標を「速い人たちの中に入って、どれだけやりたいことができるか。それができれば結果もついてくる」としている。
寺田は10年前の世界陸上ベルリン大会に19歳で出場した。13秒41で予選を通過できなかったが、そのときとはどこが違うと自身では感じているのだろう。
「10年前は世界陸上前に13秒05で2回走っていて、ベルリンでも同じ感覚で走ったのですが、何が違ったのかわかりませんでした。モチベーション的にも、世界陸上代表を勝ち取ったことがゴールのように思ってしまった」
今回の復帰は世界で戦うことを強く意識している。10年前も世界を目指してはいたが、その頃とは覚悟はもちろん、自身の置かれている環境を強固な足場として、競技力に結びつけている点が大きく違う。
「私ひとりの力で復帰し、ここまで来られたわけではありません。“チームあすか”として、10人近くのスタッフに関わってもらっています」
夫で会社社長の佐藤峻一氏は自身も陸上競技経験があり、マネジャーとして競技活動を一番近い位置で支えてくれている。高野大樹コーチ、2人のトレーナー、マッサージ師、メンタルトレーナー、2人の栄養士ら、それぞれの分野のスペシャリストが支えてくれている。何より、娘の果緒ちゃんの存在に癒やされもするし、その無邪気な応援が励みにもなっている。
人間的な部分でも、トレーニング方法も、動きに関する感覚も幅が広がったことで、10年前とは「図太さ」が違うという。
「海外の試合は復帰後初になります。この9カ月間の感覚と、海外に出たときの感覚がどう違うのか、楽しみにしているんです。暑さだったり、マイナス面も多いと思っていますよ。でも、そのくらいは調整できる図太さをもって帰ってきたつもりです。自分の走りに対する理解度の大きさが、図太さになっています」
9月1日に12秒97を出し、代表入りを確実にした。それから世界陸上本番まで1カ月しかない。寺田と高野コーチは「足を速くすること」に重点を置いている。
「踏み切り位置の変更は、2カ月やって変えられました。復帰から9カ月でここまで来られたのですから、まだ1カ月もある。1カ月でできるだけ足を速くします」
10年ぶりの世界陸上は「自分がどんな反応をするのか、楽しみで仕方がない」と声を弾ませる。寺田がどんなパフォーマンスをしてどんなコメントを残すか、見ている我々も楽しみで仕方がない。
寺田(てらだ) 辰朗(たつお) プロフィール】
陸上競技専門のフリーライター。
陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。
専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の詳しい情報を紹介することをライフワークとする。
一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことは当代随一。
地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。
選手、指導者たちからの信頼も厚い。AJPS(日本スポーツプレス協会)会員。

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 写真:フォート・キシモト