報道の魂
ホウタマ日記
2015年12月03日 「失われた命を活かす 〜日航機墜落事故の30年〜」放送後記 (西村匡史)
日航機墜落事故のご遺族を初めて取材したのは今から12年前の2003年。私は入社1年目の駆け出し記者だった。

事故が起きた30年前の1985年8月12日。母の実家に帰省していた当時小学2年生の私は、テレビの前に親や親戚が釘付けになっていたのを覚えている。生存者が救出されたときの映像や、遺体確認にどっと押し寄せる遺族の悲痛な姿は8歳だった私の胸にも強く刻み込まれた。

「あの事故のご遺族を取材するのか」。2003年8月12日、私は特別な思いをもって御巣鷹の尾根に登った。そのなかで3人の娘を事故で一度に失った田淵親吾さん(当時74歳)輝子さん(当時69歳)夫妻に出会った。

田淵夫妻は事故から4年後に2人だけで居を移し、引越先では近所の人に日航機事故の遺族であることを隠して生活していた。このため最初は取材には応じていただけない。だがその後、お付き合いを続けていくなかで取材を許可してくれるようになった。放送後、夫妻は近所の人たちに自分たちの過去が知られてしまう。だが私を責めることは一切なかった。

私はそれ以来、毎年命日の8月12日に夏休みをとってプライベートで慰霊登山のお供をさせていただいている。夫妻と出会ってから12年。今年も86歳と81歳になった夫妻とともに御巣鷹の尾根に立った。
 
田淵夫妻とのお付き合いを通して、小澤紀美さん秀明さん母子と出会った。最初に会ったのは秀明さんが18歳のとき。まだあどけなさの残る青年だった。紀美さんからは「私から話を聞くのは構いませんが、この子にはこの子の人生があるのでそっとしておいてください」と言われた。

それから10年以上の歳月が経ち、秀明さんは自ら親世代の思いを引き継ぐ決意をする。

紀美さんや田淵夫妻ら親世代の遺族が「失われた命を活かす」ため、空の安全を訴え続ける姿を見てきたからだ。

小澤さん母子の取材は1年近くにわたる。2人が空の安全を訴える活動を続ける傍らには、ずっと寄り添ってきた人たちの存在があった。

坂上シゲヨさん(83歳)ら「ふじおか・おすたか・ふれあいの会」のメンバーは事故直後、遺体安置所で絶望に暮れる遺族に冷たいおしぼりや冷えた麦茶をそっと手渡した。弁当が喉を通らない遺族にはおかゆを作って体調を気遣う。事故後は犠牲者を追悼する灯篭を遺族とともに作り、毎年命日の前日に川に流す慰霊行事を続けている。

高崎アコーディオンサークルのメンバーは毎年、10キロ近くあるアコーディオンを担いで御巣鷹の尾根に登る。遺族からリクエストのあった曲を演奏し続けているのだ。
 
小澤さん母子ら「遺族」の30年を伝えるとともに、こうした「寄り添う人」の30年も伝えたいと思った。「失われた命を無駄にはさせない」という思いは同じだからだ。

「遺族」と「寄り添う人」の思いは、次世代に引き継がれようとしている。私も記者としてその思いを伝え続けていきたいと思っている。


西村 匡史
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