報道の魂
ホウタマ日記
2010年07月14日 「79歳 路上にて 〜大道芸人ギリヤーク尼ケ崎」番組後記 (秋場聖治)
ギリヤークさんを、久しぶりに取材しました。

同期入社の男が、当時、夜のニュース番組をやっていた私に
「この人知ってる?」と、持ち込んできて以来、
12年ぶりです。

過去の映像と見比べた時に、気づいたことがあります。

ご本人のこと、ではありません。
12年前、ギリヤークさんを囲む人垣の中には、
ケータイを翳して撮影する人たちの姿が
まったく無かった、ということです。

当たり前と言えば、当たり前。
ですが、改めて、ほう、と思ったわけです。

今、ギリヤークさんの名前で検索をかけると、
たくさんの画像や動画がネット上にあふれているのがわかります。

素敵な作りのファンサイトもあって、
そこにはギリヤークさんの公演場所のいくつかが
グーグルマップで示されています。

他にも、たくさんの人が、自分のギリヤーク体験を、
ブログなどで綴っています。

言うまでもなく、そんな時代です。
干支が一回りする間に、劇的な変化が起きたことを、
たっぷりと感じさせられます。

客層にも影響を与えているようで、ギリヤークさんも、

「最近、若い人が増えたけど、
あれかなあ、いんたーねっとの影響かなあ」

と、なんとなく、意識しているようでした。
が、

「いんたーねっとっていうのは、(映像が)動くの?写真だけじゃないの?」
(動くのありますよ、今。大きいものではユーチューブってのがあってですね・・・)
「へえ〜〜〜!! 動くのあるの!!!」

みたいな感じでもあります。

そんな2010年の情報環境の中で、

つまり、私たちテレビ撮影隊と同じ日に、
同じ場所で、
同じ場面を撮影した記録が、
ネット上に、あるいは、
個人のケータイや
カメラのメモリーの中に、
無数に存在しているような状況において、

いまや旧メディアに属しつつある地上波テレビが
ギリヤークさんを放送する場合、
どう、やるのか。
そんなことも、考えました。

ギリヤークさんを追う、というのは、
「社会的に意義があるもの」ではないかもしれませんし、
「ニュース性があるもの」かどうかも、微妙でしょう。
つまりは、
「放送する大義」みたいなものは、
客観的に見て、薄い、というか、
あまり無い、ということです。

前回の、そして今回の取材については、
少なくとも最初にあったのは、
「撮影したい」
「ドキュメンタリーにしたい」
「放送して、見てもらいたい」
という衝動でしかないのかもしれません。

そうした衝動は、
ウェブ上に動画をアップしているみなさんや、
ケータイで撮影しているみなさんの動機と、
質的には変わらないのだ、とも思っています。

では、テレビとして、どう、やるのか。
何が必要なのか。

答えのいくつかは、放送の中に埋め込んだつもりですが、
ざっくり言えば、
「人々に見せるに足るものである」という確信(を持つ覚悟)と、
「人々に見せるに足るものにする」という努力、かと。


などなど、ここまでつらつら書いてきて、何ですが。
いくらメディア環境が発達しても、
ギリヤークさんの芸は、生が一番です。

たとえ、そのうち「3Dギリヤーク尼ケ崎」が
みなさんのテレビやパソコンから飛び出す時代が来ても、です。

大道芸、なのですから。

そこで、気温とか、湿気とか、
何かの匂いとか、
マイクでは拾いきれないノイズとか、
そういったものに、
五感を包まれながら、
踊る人間と、
間に何も挟まずに、対峙する、

そうすることで、
彼の存在が、
何でもない空間に「破れ」を創り、
そこに「異界」を現出しているのだということを、
放送よりも、動画よりも、
よりヒリヒリと、
あるいはゾワゾワと、
感じることができるはずです。

その踊りに好き嫌いはあるでしょうが、
その皮膚感覚は、
やはり、ライブに勝るものはありません。

当たり前と言えば、当たり前。
でもまあ、こういう時代環境だからこそ、
あえて書いてみました。


でも、放送見てくださった方々、
ありがとうございました。


ディレクター 秋場聖治
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