報道の魂
ホウタマ日記
2008年10月20日 3回の沖縄戦企画・取材記 (原義和) [那覇発]
今も残る傷。それを繰り返し知らされる取材だった。63年前の痛みがリアルによみがえる瞬間がある。

当時、警察官だったある人は、6月25日、沖縄島南端、摩文仁で捕虜になった。その時のことは今も鮮明に覚えているという。粘ってみたが、彼は結局、カメラ取材には応じて下さらなかった。

死体が累々と重なり、地獄そのものと言われた摩文仁で、彼は中学の同級生と一緒に逃げ回っていた。同級生は、背中を負傷、歩くのもやっとだった。砲撃が止んだある時、彼は同級生を岩かげに残し、一人崖を下りて水浴びをした。そこで突然、米兵に囲まれた。逃げられない状況だった。「友だち、友だち」と彼は必死で訴えた。同級生と一緒に捕虜になろうとしたのだ。しかし、言葉は通じなかった。手りゅう弾による「自決」が相次いでいたからだろうか、米兵は緊迫した様子だった。銃を突き付けられ、彼は全く身動きが取れなかった。結局、その同級生とはそれっきり生き別れた。その後の消息は不明。他にどうしようもない状況だったとはいえ、彼は『同級生を見殺しにしてしまった…』との思いに戦後ずっととらわれてきた。

同級生の両親に最後の状況を伝えに行った時、その両親は、負傷した息子と行動を共にしてくれたことに感謝した。しかし彼は、その柔らかい眼差しに「どうして君だけ生き残っているのか」と厳しい気持ちが隠れていると感じた。

生き残ってしまって申し訳ない…

中学の同窓会には一度も顔を出したことがないという。大勢が訪れる「慰霊の日」はわざと外して、人の少ない時期にこっそりと摩文仁を訪れる。その無念をカメラで捉えたいと何度もお願いしたが、首を縦に振っては下さらなかった。同級生のご兄弟がまだ健在、その方がもし、画面で自分が語る姿を目にしたら悲しまれる、そうおっしゃられた。

また、いつも柔和な笑顔で壕を案内してくれるある人は、取材が終わって雑談にふけっていた時、実は私も…と靴下を脱ぎ、銃弾を受けて欠けた指を見せてくれた。彼も、案内などの協力はするが、カメラ取材は勘弁してほしいとおっしゃる。今も癒えない傷を抱えて生きる人は、決して少なくない。 意識して話を聴く努力をしないと、そうした傷を目の前にする機会はあまり無い。ほとんどの人は、沖縄戦体験を進んで語ろうとはしないからだ。あまりにも凄惨な体験で思い出したくない、言葉で表現し尽くせるものではない…様々な思いがカメラを拒む。

一方で、たとえ辛くても、「生きている限り、愚かな戦争の現実を語ることは使命」とカメラ取材に応じて下さる方もいる。 幸喜信子さん(84歳)をご自宅までお送りした時のこと、同乗していた山里和枝さん(83歳)は「私が玄関まで送る」と車を下りた。二人は戦争当時、県庁職員で、砲弾の飛び交う中を一緒に歩いた仲間だ。同僚たちは、次々に砲撃に倒れていった。幸喜さんも、砲弾で飛び散った何かの破片で左目を負傷した。顔が腫れ上がった状態、見えない彼女を山里さんがかばい、助け合いながら二人は逃げた。

今、幸喜さんはひざを悪くして、ほんの少しずつしか足を前に出せない。だからゆっくり時間をかけて歩く。左目は今も見えない。家の前から玄関までの十数メートル、山里さんが横に立ち、身体を支えながら歩いた。若い私が支えるべきだったのかもしれない。でも、声をかけられなかった。お二人が手を取り合って歩く様子から、63年前の二人の姿が目に浮かんだ。二人は、傷や痛み、辛さ、無念などを共にし、特別な絆で結ばれていた。まるでおぼつかない二人の足取りには、平和をつくり出す確かな歩みがあるように感じられた。

二人は、別れ際に、短く言葉を交わした。
「また会おうね」
「来年になるね」
「生きようね」
「100歳まで生きようね」

私はその場面をカメラで撮っていなかったことを後悔した。 亡くなった同僚のためにも生きて働こう、求められれば、非戦の思いを語り続けよう…その意志がそこにあった。

もっともっとお話をうかがわなければと、心を新たにさせられた。
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