JNNドキュメント
地上波では、地域ごとにしか見ることのできない
地方局制作のドキュメンタリー番組を毎週お届けします。
TBSの日本全国28局の系列局、JNN(Japan News Network)が誇る
日本各地の取材班が、時間をかけて紡いだ秀逸のドキュメンタリーを
お送りします。
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- ○2008年11月○
- 11月 3日(月) 「二胡は僕の杖」 制作:SBC・信越放送
- 11月10日(月) 「子どもたちへ ~がんと闘う山ちゃんの想い~」 制作:OBS・大分放送
- 11月17日(月) 「青森のアツアツおでん事情」 制作:ATV・青森テレビ
- 11月24日(月) 「ニシムイ ~沖縄・戦後美術の誕生~」 制作:RBC・琉球放送

11月24日(月)PM10:45~11:30
「ニシムイ ~沖縄・戦後美術の誕生~」
2007年12月31日放送 制作:RBC 琉球放送
ナレーション 土方浄(RBC)
○内容○
沖縄県那覇市に県初の県立美術館が誕生した。
開館記念の特別展示として、戦後に忽然と現れ、
短い期間で消滅した「ニシムイ展」が開催された。
戦後まもなくの美術村「ニシムイ」は、
その存在を知る人も少なく、語る人達もいない。
アメリカ・ニューヨークを拠点に活躍する
沖縄出身の画家・照屋勇賢は、
戦後沖縄の美術村「ニシムイ」のことに興味を持った。
「ニシムイ」に住み、
絵を描き続けた画家達の足跡を尋ねていく。
そして、当時の画家のひとり、
現在97歳の具志堅以徳と出会う。
「描くこと」は「生きるため」でもあった。
アメリカ軍の意向で美術村が誕生した経緯に、
戦後沖縄の歴史が浮かびあがった。
そして、画家達の葛藤も重なっていった。
番組では、戦後沖縄の美術を復興させた
8人の画家達の作品を求めて、アメリカ取材を実施。
残された作品と当時の絵を買い求めたアメリカ人の話を聞く。
戦後沖縄の美術史で「タブー」とされた歴史を追い、
当時の画家達の生きた証を表現する。
沖縄県那覇市に県初の県立美術館が誕生した。
開館記念の特別展示として、戦後に忽然と現れ、
短い期間で消滅した「ニシムイ展」が開催された。
戦後まもなくの美術村「ニシムイ」は、
その存在を知る人も少なく、語る人達もいない。
アメリカ・ニューヨークを拠点に活躍する
沖縄出身の画家・照屋勇賢は、
戦後沖縄の美術村「ニシムイ」のことに興味を持った。
「ニシムイ」に住み、
絵を描き続けた画家達の足跡を尋ねていく。
そして、当時の画家のひとり、
現在97歳の具志堅以徳と出会う。
「描くこと」は「生きるため」でもあった。
アメリカ軍の意向で美術村が誕生した経緯に、
戦後沖縄の歴史が浮かびあがった。
そして、画家達の葛藤も重なっていった。
番組では、戦後沖縄の美術を復興させた
8人の画家達の作品を求めて、アメリカ取材を実施。
残された作品と当時の絵を買い求めたアメリカ人の話を聞く。
戦後沖縄の美術史で「タブー」とされた歴史を追い、
当時の画家達の生きた証を表現する。


11月10日(月)PM10:45~11:30
「子どもたちへ ~がんと闘う山ちゃんの想い~」
2008年5月5日放送 制作:OBS 大分放送
取材・構成・ナレーション 井口尚子(OBS)
○内容○
大分県豊後高田市に住む山田泉さん(49)は、
養護教諭として市内の小中学校に勤務するかたわら、
命の大切さについて教える「いのちの授業」を行ってきた。
2000年に自らが乳がんを発症し、
死を間近に感じたことがきっかけだ。
しかし、2005年にがんを再発、
体力の限界を感じたため2007年の3月、
28年間務めた養護教諭生活に終止符を打った。
退職後は、がんの転移がわかったこともあり、
治療に専念しながらのんびりと過ごそうとも
考えていた山田さんだが、
苦しんでいる子どもたちを救いたいという
思いが消えることはなかった。
体調と相談しながら、県内外の学校を訪れ、
出張「いのちの授業」を行ったり
毎週水曜日には「街の保健室」として
自宅を開放するなど、
子どもを支える活動を続けている。
がんを患い、医師からは「治らない」と
宣告された山田さん。
その山田さんが行う「いのちの授業」で、
生きる勇気をもらう子も少なくない。
佐伯市蒲江に住む木許ひなのちゃん(12)も、
生きる勇気をもらった一人だ。
ひなのちゃんは小学1年生のときに
急性骨髄性白血病と診断され、
辛い闘病生活を送ってきた。
学校も休みがちだったが、
自分がいのちに関わる病気だと知り、
友達に病名を伝えることが出来ずにいた。
しかし、病気のことを隠さず話す山田さんに出会い、
自分も友達に伝えたいという気持ちが強くなったのだ。
小学校卒業を控えたひなのちゃんが、
病気のことをみんなに話す様子や、
街の保健室の様子などを通じて、
子どもたちが山田さんから何を感じたのかを描く。
大分県豊後高田市に住む山田泉さん(49)は、
養護教諭として市内の小中学校に勤務するかたわら、
命の大切さについて教える「いのちの授業」を行ってきた。
2000年に自らが乳がんを発症し、
死を間近に感じたことがきっかけだ。
しかし、2005年にがんを再発、
体力の限界を感じたため2007年の3月、
28年間務めた養護教諭生活に終止符を打った。
退職後は、がんの転移がわかったこともあり、
治療に専念しながらのんびりと過ごそうとも
考えていた山田さんだが、
苦しんでいる子どもたちを救いたいという
思いが消えることはなかった。
体調と相談しながら、県内外の学校を訪れ、
出張「いのちの授業」を行ったり
毎週水曜日には「街の保健室」として
自宅を開放するなど、
子どもを支える活動を続けている。
がんを患い、医師からは「治らない」と
宣告された山田さん。
その山田さんが行う「いのちの授業」で、
生きる勇気をもらう子も少なくない。
佐伯市蒲江に住む木許ひなのちゃん(12)も、
生きる勇気をもらった一人だ。
ひなのちゃんは小学1年生のときに
急性骨髄性白血病と診断され、
辛い闘病生活を送ってきた。
学校も休みがちだったが、
自分がいのちに関わる病気だと知り、
友達に病名を伝えることが出来ずにいた。
しかし、病気のことを隠さず話す山田さんに出会い、
自分も友達に伝えたいという気持ちが強くなったのだ。
小学校卒業を控えたひなのちゃんが、
病気のことをみんなに話す様子や、
街の保健室の様子などを通じて、
子どもたちが山田さんから何を感じたのかを描く。
