コシノジュンコ MASACA

ファッションデザイナー:コシノジュンコが、それぞれのジャンルのトップランナーをゲストに迎え、人と人の繋がりや、出会いと共感を発見する30分。MASACA!な驚きを創造する人々…MASACA!な未来を想像する人々…そんな人々との出会い「MASACA!」がCREATIONを生み出す!

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コシノジュンコ MASACA
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出演者

コシノジュンコ
大阪府岸和田生まれ。78年パリコレデビュー。世界各地にてショウを開催。オペラやブロードウェイミュージカルの舞台衣装、スポーツユニフォーム、インテリアデザイン等幅広く活動。MASACAは初のラジオレギュラー番組。

出演者

出水 麻衣
TBSアナウンサー。
1984年2月11日生まれ。東京都出身。
上智大学外国語学部英語学科卒。
趣味:特スポーツ観戦・グルメツアー・観劇・ゴルフ・ランニングなど

ゲスト:山本寛斎さん part1
MASACA!初対面は・・・・


出水:ラジオとか御出演されることは・・?
寛斎:よくあります。はい。
出水:ジュンコ先生とこうやってラジオで・・・
寛斎:ラジオでは初めてですし、なにしろ私には師匠ですから。あれと一緒ですよね、部活と一緒で、先輩先生と弟子ですから。
JK:一生だもんね。過去は変わらないから。
出水:お二人の出会い、お聞かせ願えますか?
JK:横浜の大桟橋で、私が浜野安宏っていうのを送りに行って、カリフォルニアへ行くっていうので送りに行ったでしょ。行ってらっしゃいって言った時急に、若い男の子が、私がショッキングピンクの裏がプリントの来てたのね。誰か判らない人が来て、ウラ見せてくださいって。ちょっと聴きたいんだけど、あの時、送りに行ってるのに、ピンクに惹かれたの?突然。見送りよりもそっちの方が大切だったみたいね。
寛斎:これはね、えっと、ご本人がおっしゃっていることと、私の記憶がまったく違うんです。
出水:ええっ!山本さんの記憶は?
寛斎:私の記憶は、先生のところに許可を得て、お弟子さんにしてもらって、お針子になったんですね。スカート縫ったり、ブラウス縫ったり。それで彼女がアトリエで、私が出勤してアトリエで「今日の仕事よ寛斎さん」って教えてもらっていた布の色がグリーンで、ピンクっていうのは彼女のマニキュアの色で、教えながら教えてもらいながら、このピンクと緑は補色の関係で凄く引き立つわねって言われたんですよ。それで私は、デザイナーってこういう風に閃くんだなあ、って。
JK:だけどね、飛ばしてるよ。
寛斎:ええっ?
出水:(笑)
JK:兎に角、住所教えてくださいって。あくる日、本当に知らない男の子が突然来て。
寛斎:私のこと?
JK:そう。あのときまだ日大の学生だったでしょ。今日から弟子にしてくださいって、正座してガッと。スゴカッタ。そんな場面経験無いから、びっくりしちゃって。
出水:懇願に来たわけですね。
JK:まだ若いじゃないですか。親の許可を得ないとって言ったのよね。そしたら「僕は勘当されていますから、親の許可は得られません」って言われた。
山本さん、覚えていらっしゃいますか?
寛斎:弟子入りしたっていうのは覚えていますよ(笑)
出水:それにしてもお二人、見事にエピソードかぶらないですね。


JK:今日着ている洋服も、ネックレス、これアフガニスタン?中近東?
寛斎:中近東、はい。
JK:私さっき、寛斎さん来る前にお話したんだけど、カトマンドゥで逢ったでしょ。あの話したのよ。
寛斎:逢ったね!あー!
出水:ネパールのカトマンドウで、向こう側からベビーカー押してきたのが寛斎さん。
JK:あれが未来ちゃんよね。
寛斎:そうそうそう。まったく表参道で出逢うのと一緒で。二人の娘を連れて、ベビーカーを押して「あ、先生」みたいな。
JK:あんなところでね、奇跡みたい。MASACAな話が山ほどあるんだけど。想いだした?
寛斎:想い出しました。そこは一致しています。


寛斎:それで私は彼女のところで、いったい何を学んだかというと、いろいろなファッションのことを学びましたが、デザイナーというのは、いったいどうやって24時間過ごすか、それを学びましたよ。
出水:どんなことを学びましたか?
寛斎:まず、ぶっとんだ人ばかりでしたよ
JK/出水:(笑)
寛斎:いまでも言うんですけど、世界的な才能は、変わっていなきゃダメ。普通の人で世界に通じる人はいない。これは最も学んだことです。
JK:もう夜な夜な、とにかく時間が公私混同していて、仕事になるならない関係ないの。面白い人が毎日一緒だったわね。
出水:人が人を呼ぶ感じだったんですね。
JK:ずーっと続いているんですよ。わたしもそうだったけど。みんな一流になったじゃないですか。
寛斎:そうですね。
JK:一流を目指すということじゃなくて、お互いに、、、、面白かったの。それでどんどん、お互いに仕事が面白いし、いろいろ影響されたりというのが、一生これはやっているわね。

=オンエア楽曲=
M1. Fama / David Bowie
M2. Starman / David Bowie

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ゲスト:山本寛斎さん パート2
MASACA デビッド・ボウイの衣装について、アノ方から連絡が・・・

出水:山本寛斎さんは1971年代、世界的ロックスター、デビッド・ボウイのステージ衣装を手掛けていらっしゃるんですね。
寛斎:はい。
出水:残念ながらデビッド・ボウイさんは、今年1月10日に突然の訃報が伝えられまして、二日前の8日に69歳の誕生日を迎えたばかりということで、非常に急で驚かれたと思うんですが・・・
寛斎:世界中からですね、メールやらその他で、お悔やみの連絡をもらったんですけど。私の方はね、彼との関係値で、積み残したことがあるんですな、はっきり言うと。彼は、ご自身の命の中で、ほぼ表現は全て完了されたんじゃないかと思っているんです。ところがですね、彼自身が知らない寛斎がハッキリといて、それは何かというと、デザイナーに留まっていない、いまやそれを超えるぐらいのネルギーをかけている、イベントのプロデューサー、演出家の部分で、彼とは一度も仕事をしたことが無かったわけです。で、生きている数年前で、ニューヨークのセントラルパークで、彼のコンサートを私がプロデュースさせてもらおうかと、当時イロイロな企業からお願いすると、約5億円くらい集まるんですね。その金額でニューヨークで、彼の方があまりギャランティーを請求されなければ、世界初の、衣装が変わってて、演出が変わってて、ということがやりたいなあ、と凄い願望として持っていたんですね。
ですから彼が亡くなったときに辛かったなあ、というよりも。
JK:悔しい?
寛斎:積み残した、宿題が残っているという感じで。だから今、気持ちの中は、ご本人はいらしゃいませんが、ですけども残した曲やら、彼についての記憶がありますから、いつの日か、私の想いを企てて実行してやろうと思っていますんで、いわゆる人が思っている、悲しそうですね、残念ですね、というのはないです。
JK:やり残しているというか・・・
寛斎:そうです。
JK:だけどデビッド・ボウイって、本当に美しいというか、それこそ玉三郎さんに憧れたというか、日本の歌舞伎の女形の美しい面は持っていたから、寛斎さんと出逢って眼が開いたというか、寛斎さんもボウイに逢えて、人生最高に得したというか、ラッキーだったと思うんですよ。

寛斎:話が飛びますが、私、彼と出会ってですね、展覧会来年日本来ますが、はっきり言って、私のがイチバン似合ってます。
JK:そう思います。
寛斎:そうでしょ。
JK:わたし、映画見たから。
私ね、デビッド・ボウイさんとパリで一緒に食事したことがあるんですよ。友達の友達で、それで6人で食事したんだけど、順番に座ったら、いまいるみたく目の前になっちゃったんですよ。見ていると、パントマイムやっていたから、食事のときも両手、左右対称に動く。その動きの手の美しさ、見とれてた。何を食べていたか忘れちゃったけど、手の動きが美しくて。
寛斎:全ての所作が完成されているというか・・・
JK:だって自分の生き方をね、パントマイムによって動きが決まったと思うのね。

出水:寛斎さんはワールドツアーのためにデビッド・ボウイさんに幾つか衣装を作っていらっしゃいますけれども、どういうイメージで、どういったことを意識されてデザインされたものなんですか?
寛斎:一番最初に彼に出会ったのはニューヨークなんです。ロンドンからニューヨークへ行って、いよいよアメリカのビジネスをスタートするよということで、ニューヨークのラジオシティミュージックホールで、その時に、友人の高橋靖子さんっていう、ロンドンのショーのときのプロデューサーが、彼用に私の服を集めて、彼に貸し出そうとしたという話があったんですね。私は彼が何者か知らなくて、どういうショーをするかも知らなくて、、何を申し上げたいかというとですね、その高橋靖子さんがニューヨークから、或る日電話がかかってきまして、日本時間で言うと夜中ですよ。とにかくすごいことがニューヨークで起きようとしているから、なんとしても来いよと。
JK:ニューヨークに来いと!?
寛斎:そうです。それが立て続けに30分おきにかかってきまして。最初の内は、また寝ようとしていましたが、これは余程大変なことなんだろうということで、飛びましたよ。スケジュール全部キャンセルして。
JK:ラジオシティって、6000人入りますよね。トニー賞あそこでやるんですよね。
寛斎:知らんかった。なぜ知らんかというと、私いきなり被り付きへ連れて行かれたんで、後ろにどれくらい人がいるか、スタートしたらわからないじゃないですか。
寛斎:それで、昨今の話があって、ガガさんから連絡があって、とにかく寛斎しか持っていないボウイのいくつかの関連のある服を渡しに着させてほしい、と。。。
JK/出水:へー・・・
寛斎:ここから先は彼女も秘密にしていらっしゃると思うんで。
出水:楽しみですね。
寛斎:それで現れると思いますよ。
寛斎:改めて、ボウイって、何が、この時代の幕開けをした人かというとですね。音楽という表現手段と、ファッションという種段と、この二つを使ったんですね。それと、性別というまぁ、カテゴリーに挑戦した人だと思いますね。


=オンエア楽曲=
M1. 夜の踊り (ショパン) / Sarah Brightman
M2. Changes / David Bowie

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