コシノジュンコ MASACA

ファッションデザイナー:コシノジュンコが、それぞれのジャンルのトップランナーをゲストに迎え、人と人の繋がりや、出会いと共感を発見する30分。MASACA!な驚きを創造する人々…MASACA!な未来を想像する人々…そんな人々との出会い「MASACA!」がCREATIONを生み出す!

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コシノジュンコ MASACA
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出演者

コシノジュンコ
大阪府岸和田生まれ。78年パリコレデビュー。世界各地にてショウを開催。オペラやブロードウェイミュージカルの舞台衣装、スポーツユニフォーム、インテリアデザイン等幅広く活動。MASACAは初のラジオレギュラー番組。

出演者

出水 麻衣
TBSアナウンサー。
1984年2月11日生まれ。東京都出身。
上智大学外国語学部英語学科卒。
趣味:特スポーツ観戦・グルメツアー・観劇・ゴルフ・ランニングなど

ゲスト:谷村新司さんpart-1
MASACA!中国で学生の通訳さんがMASACA!



出水:谷村さんの80年代の活動を振り返ってみたいのですが、海外に出て、たとえばアジアで活動されたことが多くて。谷村さんがアジアに出ていかれたのは、どういうきっかけだったんですか?
谷村:ちょうど80年、81年あたりで、初めて北京でアリスとして、大きいコンサートをやって。
JK:早いですよね。
谷村:まだみんな人民服。
JK:そうそうそう。まったく。
谷村:それで壁新聞に出たんですよ。
JK:貼ってあるのよね、道に。
谷村:みんなそこに読みに来るんです。そういう時代だったんだけど。「中国大陸に、ポップスが初めて流れた瞬間」っていう書き出しだったんです。
JK:初めて。
谷村:やっぱり、遮断されていたんで。
JK:切り開いた人よね。私も85年にショーをやったじゃない。その前に既に足を踏み入れているわけだから、凄いわよね。
谷村:突破口みたいになれるとばいいなと思って。


JK:あれからずーっと続けて・・・
谷村:そのあとはずっと20年間、アジアの国々を回っていたんだけど、そのきっかけが、北京のコンサートのときに大学生が通訳をしてくれたんですね。すごくきれいな日本語をしゃべる。彼が、打ち上げのパーティーのときに、「先生、どうして日本は中国に背中を向けているんですしょうか?」と言われたんです。意味が最初よくわからなかったんだけど、「先生たちは太平洋側を表日本と呼んで、日本海側を裏日本と呼んでいらっしゃる。でも昔はこっち側が玄関だったんじゃないですか?」と。本当にその通りだと僕は思ったんですね。それで、このまま行くと、アジアの中に日本はあるんだけど、日本はアジアではないと、みたいな感覚を、僕らは漠然と思ってしまうのは、すごく危険だと思って。
JK:この言葉いいね。現実に体験しているっていうこと。
谷村:アジアの国のひとつであるという認識をもっていないと。日本が勘違いして走ってしまいそうな気がして。だからアジアに絶対道を作るんだ、橋をかけるんだという、それをやろうと。でも、当時、だれもアジア向いていなかったんで・・・
JK:アジアって、まず中国が遠かった。誰も知り合いいなくて、全然遠くて、アジアっていうより、まず中国って、日本に文化的な影響をしているわけで。だから私もパリコレやるときに中国って無視できない、っていうのがあったのね。
谷村:日本と中国って、本当に重なっている部分がすごく多いくになんだけど、お互いにネガティブなことばかりを報道する。この報道のやりかたも中国もダメなし、日本も本当にダメ。実際に行っている人は、まったくそういう状態じゃないって、僕らは知っているから。あまり報道に流されない方がいいですよと。

=オンエア楽曲=
M1. Please Mr. Postman / The Marvelettes
M2. 昴 / 谷村新司

(2015年11月15日OA)

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ゲスト:谷村新司さん パート2
MASACA!肥満児だった少年が運命の出会いから北米へ!


JK:前に聴いたんだけど、子供の頃、凄く太ってて、運動会でハシゴを潜り抜けられなかったって・・・
谷村:そうそう、肥満児だったんで。
出水:そうなんですか?
谷村:だから、凄い壮絶な過去を持っているんです。
出水:壮絶な過去といいますと・・・・
谷村:小学校の三年生まではヒーローだったんです。それで学級委員長で、リレーのアンカー。
出水:花形ですね!
谷村:もう、スターだったの。それで4年生くらいから徐々に太り初めまして、6年生くらいで肥満のピークになって、そうすると今までの栄光の日々が、女の子、誰も振り向かないという、今度は暗黒の日々にかわっていって。
JK:あららら
谷村:それで中学に入ったら、そっから丸坊主ににさせられるから・・・
JK:学校がね。
出水:より女の子が遠ざかる・・・
谷村:それで、女の子を振り向かせるために、なにか武器を持たなくちゃいけないと思ったのが、ギターだったの。それが音楽との出会い。
出水:ギターを持った瞬間、状況は上向いたんですか?
谷村:もう、ギターすごいと思いました。あの当時、ギター弾ける人があまりいなかったんで、1日8時間ずつくらい練習して、モテたいという意思があれば、やれるもんだと。
JK:みなさん、世間の人、聴いてください、みたいな。ホントに持てたわね。
谷村:少しずつ。。。聴きたいとかって言い始めて。
出水:何を弾いていたんですか、当時は。
谷村:オリジナルも作ってた。
出水:中学生で!
谷村:もう、すっごいへたくそな詞で、ホントにメロディーでもないようメロディーなんだけど、出来る人がいなかったんで、注目されて。それで高校入ってアマチュアバンド組んで、他の学校の文化祭に呼んでもらって、それでラジオに呼んでもらって、ラジオで歌った歌がバーッと広まって、割と人気バンドになっていったって。そんな流れですかね。


谷村:一番大きな流れっていうのが、万博だったんです。大阪の。1970年。そのときに、僕らアマチュアバンドがカナダパビリオンの水上ステージに、カナダ館が解放してくれて、アマチュアの時間を作ってくれて、日本中のアマチュアが。その中のひとつに自分たちも選んでもらって、世界中の人たちが客席にいるところで初めて歌うことができて、そのときに凄い運命的な出会いがあって、そのアマチュアバンドを仕込んでいた男がひとりいまして、それが同い年の学生だったんです。彼も。実は、交通費という名のギャランティーが出ていたんです。ところが僕らはアマチュアなんで、当然無料だって思ってて、ギャランティーあるって思わずに歌ってた。ところがその歌を聴いていて、彼が終わってから僕のところに飛んできて「歌ってええなあ」って言ったんです。そしたら彼が「実は謝ることがある。みんなにギャランティー出てる。それを俺は内緒にして、軽トラックを買おうと思ってた。」と。
JK:着服して・・・
谷村:「うやむやに行けると思ってたけど、歌聴いていたら、これちゃんと伝える」って言ってくれて、僕はその瞬間に彼のこと凄い好きになって。運命的な出会いだなあと思ったら、その彼が「お前らの唄をアメリカ人に聴かせてやろうよ」と、突然言ったんです。僕は、わかった、って言って、その年の夏に、もうバンクーバーにいたんです。そこから自分の人生がどんでん返しのように動いていくんです。バンクーバーからアメリカ大陸を横断する無謀な旅がはじまるんです。2か月間。
JK:学生だから出来るのね。
谷村:グレイハウンドっていうバスに乗って、ホテルに泊まるとお金かかるから、バスで夜は寝て。着いた街でストリートをやって。で、40何日間、バンクーバーからニューヨークまで横断して、そっから南下してメキシコシティまで行って。途中でお金が無くなり、路頭に迷い、メキシコ人に助けられ、そんなことを一杯経験して日本に戻ってきたときに、どの国に行っても人がいる限り素敵なことは起きるって、自分は信じられるようになったんで、そういうことを音楽できたらいいなっていうのがプロへのスタートだった・・・・


=オンエア楽曲=
M1. Moon River (From Breakfast at Tiffany's) / Audrey Hepburn / Henry Mancini
M2. 北陸ロマン 〜プレミアムデュエットバージョン〜 / 谷村新司 x 仲間由紀恵

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