アフリカに棲むゴリラたち類人猿を保護するために、京都大学総長の山極寿一先生方の協力により設立した保護基金です。寄せられた基金は類人猿に対する保護育成および現地住民の環境教育など、様々な活動の支援金として生かされています。 SAVE THE GREAT APESカードによるショッピングご利用金額の0.5%相当額を、「日本グレイトエイプス保護基金」へ寄付いたします。カード会員さまのご負担は一切ございません。
■シルエットで見る大きさの違い
 類人猿特有のナックルウォークを基準にゴリラ、チンパンジー、ボノボの大きさをシルエットで表しています。人のシルエットは180センチをイメージしており、各々のシルエットを比較するとこのようなイメージとなると想定したものです。
しかし、現在でもまだ正確な数値は計測されていません。
シルエットで見る大きさの違い
■なぜ今野生の類人猿たちを救わねばならないのか?
 『不況下のニッポンで人間も大変なのに、なぜアフリカのゴリラ、チンパンジー、ボノボを今、救わなくてはならないの?』という質問を私も受けますが、TBSではこう考えています。野生のゴリラ、チンパンジー、ボノボは、彼らの住む熱帯雨林が、人間によって大規模に伐採され、住みかを失ない、今絶滅の危機にひんしています。野生のゴリラ、チンパンジー、ボノボを救うことは、人間にとって大事な熱帯雨林を守ることになるからです。

熱帯雨林では多くの酸素が生み出されるとともに、ゴリラやチンパンジー、ボノボばかりでなく数多くの未知の動物や植物が互いに深く結びつき合いながら生存しております。その中には人類の病気や食料危機などの問題を解決してくれる生物が生存している可能性が高いのです。熱帯雨林を守り、その生態系の中に生きるゴリラ、チンパンジー、ボノボを守ることが地球・人類の未来にとって非常に重要なことです。ぜひ野生の類人猿を助けるTBSの21世紀プロジェクト「セイブザグレイトエイプス」に参加していただけませんか。ゴリラ、チンパンジー、ボノボの未来は人類の未来でもあります。
▼人の仲間として類人猿を考える
西田利貞(故人) 京都大学理学部教授 前国際霊長類学会会長
西田利貞 チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、そしてオランウータンは、「大型類人猿」と呼ばれる。彼らは、ヒトとDNAの大部分を共有する。ヒトと最も近い動物であるというだけでは不十分だ。彼らはヒトの仲間なのである。大型類人猿は、道具を状況に応じて柔軟に使うことができる。自己認識の能力もある。ある物を図形などで示す能力ももつ。つまりシンボルを使うこともできる。もし大型類人猿がいなければ、私たちは人類が進化の産物であることに思い当たらなかっただろう。大型類人猿は、生息地の森林の焼畑化や木材伐採、食用やペット、あるいは医学的実験のための捕獲によって、今絶滅の淵にある。ヒトが地球を独占し、資源を好きなように利用し、環境を破壊してきたためである。広い自然保護区をつくり、大型類人猿の個体群と文化を保全しなければならない。私たちが今、活動しなければ、彼らは永久に戻ってこないだろう。
 西田利貞先生は、2011年6月7日にご逝去されました。西田先生は、野生チンパンジー研究のパイオニアであり第一人者でもあります。40年以上の長きにわたって、マハレでのフィールド調査を牽引してこられました。西田先生が、チンパンジー研究とマハレの野生動物の保全に果たしてこられた役割ははかり知ることができません。謹んで哀悼の意を表します。
▼ボノボを救ってください
加納隆至 京都大学名誉教授
加納隆至 ボノボは、アフリカの類人猿のなかでは一番きゃしゃで小型ですが、チンパンジーと並んで人間にもっとも近い類人猿です。彼らは人間のようにはしゃべることはできませんが、教えられると人間の言葉を耳で理解し、身振りや記号によって意思を伝えることができますし、パソコンゲームで遊ぶこともできます。
 ボノボは、母親が子供をかわいがることはもちろん、屈強なオトナのオスでも自分の力を誇らず、メスを大事にし幼い子をいつくしみ、他者をいじめたり争そったりすることを好みません。また、傷ついたり悲しんでいる者をなぐさめたり、困っている者を助けようとする、「他人の痛みが分かる、まるで人間のような類人猿」としても有名です。第2次大戦のときミュンヘンのヘラブルン(Hellabrunn)動物園に飼われていた3頭のボノボは、町が空襲されている音におびえて、1頭残らずショック死してしまったそうです。この一事を見てもボノボがいかに繊細な心の持ち主かが分かるでしょう。

 この心優しい類人猿は、コンゴ民主共和国のコンゴ川の南側の15万km2の森林地帯に住んでいます。ゴリラやチンパンジーの生息域と比べてもずっと小さいばかりでなく、この地方の住民のほとんどは、ボノボの肉を食料として食べるため、毒矢や銃や罠で狩りたてられ、各地で絶滅の淵に追い込まれています。母親が殺されて食べられてしまったあと、アカンボウはペットとして売られていますが、母を失った心の痛手の上に、無知な飼い主に粗雑にあつかわれるため、ほとんどのアカンボウはすぐ死んでしまいます。見かねて、彼らを集めて「ボノボの孤児院」を作った人もおりますが、どこからも資金援助がないので、続けていけないのが現状です。
 追い打ちをかけるように、ドイツなどの外国資本によってコンゴ森林を大規模に伐採する計画がつぎつぎと立てられ実行に移されてています。殺されることから運良く逃れても、住み場を失ったボノボはどこへ行けばいいのでしょうか。彼らを絶滅から救い、ふたたび安住の地を与えてやるためには、できるだけ多くの人々にボノボという類人猿を知っていただき、「ボノボたちを守ろう」という運動に参加していただくことが必要なのです。
▼人と類人猿の本当の共存共栄を目指して
山極寿一 京都大学大学院理学研究科教授
山極寿一  ゴリラは長い間不当な誤解を受けてきた、私たちの隣人です。19世紀半ばにアフリカの熱帯雨林で発見されて以来、探検家たちは口をそろえてゴリラの凶暴さを主張し、多くのゴリラたちが犠牲になりました。欧米や日本の動物園で人気者になってからも、その内気で頑固な性格ゆえに数々の誤解を受けてきました。でも、私たちは近年アフリカの各地でゴリラたちと親しくつき合えるようになり、彼らが実は平和を愛する豊かな心をもっていることを知りました。ゴリラたちはオスとメスの長期にわたる親密な関係によって暖かい家族生活を送っており、その姿は人類家族の過去の姿を想像させてくれます。子供ゴリラたちに慕われ、親身になって面倒をみるオスの姿はこれまで強調されてきたゴリラ像とは正反対であることがわかります。ゴリラたちの慈愛に満ちた生活風景は、私たち人間が過去に忘れ去ってきた大切なことを思い出させてくれるのです。しかし、そんなゴリラの生活は今大変な危機にさらされています。ハンターや動物商人たちの格好の獲物になったために、ゴリラの生息数は今世紀の中頃までに激減してしまいました。さらに近年になって生息地である熱帯雨林が大規模に伐採されはじめ、すみかを失ってゴリラたちは途方に暮れています。もはやどこでも人間と接触せずには生きていけない状況になっているのです。

 そして、それに追い打ちをかけるようにゴリラの生息地周辺で内戦がはじまりました。多くの難民がゴリラの森に逃げ込んでワナをしかけたり、木を切るようになりました。これらのワナにかかって手足が不自由になったり、兵隊に誤って銃で撃たれたりするゴリラが後を断ちません。人間が侵入したために、人間の病気に感染して死亡するゴリラも増えてきました。4−5年に1度しか出産しないゴリラにとって、いったん数が減ると元に戻すのには長い時間がかかります。手遅れにならないうちに早急な保護対策をうつ必要があるのです。

 それには、地元の人々の協力が不可欠です。地元の人々の生活が豊かになりゴリラに対する認識が変わらなければ、ゴリラを保護することはできないからです。過去にゴリラをはじめとする野生動物を保護する国立公園ができたとき、地元の人々は生活の場を奪われ、生業活動の変更を余儀なくされました。ゴリラの保護は地元の人々の大きな犠牲の上に成り立っているのです。これまで、私たちはゴリラの生息地で地元の人々と協力してどうしたらゴリラと共存していけるかを考えてきました。コンゴ民主共和国のカフジ・ビエガ国立公園では地元の青年たちを中心に「ポレポレ基金」が設立され、保護と地場産業の両立をはかっています。人間にとって本当に豊かな生活とは、ゴリラや他の動物たちと共存できる自然の中で生きることだと考えたからです。そこには欧米や日本に発達した近代文明への批判も含まれています。自然と共存してきた祖先の知恵と伝統を活かし、新しいアフリカの未来を創造しようというのです。日本Great Apes 保護基金はこうした地元のさまざまな保護活動にあてられます。大切なことは日本の価値観を地元の人々にただ押しつけるのではなく、ともに知恵を出し合ってどうしたらゴリラが救えるか、人間は何をゴリラから学べるかを考え、それを実行に移すことです。この基金がその緊急な、かつ有効な手段に貢献することを期待しています。
山極寿一<新しく名誉顧問になられた、山極教授からのメッセージです。>

 ポレポレ基金(通称ポポフ)は、1992年にアフリカのコンゴ民主共和国東部で設立された、「ゴリラと人との共生を目指すことを目標とした」NGO(非政府、非営利の民間団体)です。近くにあるカフジ・ビエガ国立公園はゴリラの保護を目的として1972年に設立され、1980年には世界自然遺産に指定されました。1980年代には世界各国から多くの観光客がゴリラを見に訪れ、ここに生息するヒガシローランドゴリラ(Gorilla beringei graueri)は一躍世界の人気者になりました。マエシェと名付けられたオスゴリラは、本国ザイール(現コンゴ民主共和国)のお札に印刷され、その紙幣はマエシェと呼ばれていたほどです。しかし、ほとんどの地元の人々はゴリラの姿を見たことがなく、ゴリラを保護する重要性も理解していませんでした。観光による恩恵も受けられないまま、しだいに保護区への反発が高まっていったのです。

 カフジ・ビエガ国立公園は6000 km2の広さをもち、600 km2の山地林とそれ以外の低地熱帯雨林からなる多様な植生帯を有しています。ゴリラばかりでなく、森林ゾウ、チンパンジー、コンゴクジャクなどアフリカの熱帯雨林を代表する動物たちが数多く暮らしています。その周辺には6つの民族からなる約400万人の人々が暮らしています。とくに山地林は火山性の肥沃な土壌によって農耕に適し、昔から多くの人々が狩猟採集や焼き畑耕作に従事してきました。狩猟採集民のトゥワ人は狩猟で得た肉や薬草などを農耕民と交換し、独自の文化を保って暮らしてきたのです。

 ところが、国立公園が設立されると住民たちはこれまでのような生活ができなくなりました。トゥワ人たちは森から出て、農耕民に混じって暮らさなければならなくなり、狩猟採集をもとにした自分たちの文化を維持できなくなりました。農耕民たちも畑を広げることができず、農業だけでは増え続ける人口を養っていくことができなくなりました。そこで、畑の利用権を手放して現金収入の得られるコーヒーや紅茶のプランテーションで働いたり、不法と分かっていながら保護区に入って金や希少金属の採掘に従事するようになったのです。でもコーヒーや紅茶の国際価格は低く抑えられ、満足する収入は得られません。

 その上、国立公園の境界に密接して畑地が作られているおかげで、野生動物たちが畑に侵入して作物を荒らすようになりました。とくにゾウによる被害が大きく、カボチャでもトウモロコシでも根こそぎ食べてしまうし、巨体なので簡単に追い払うことができません。一方、住民が薬草や薪を採りに保護区へ入ると、不法だという理由ですぐに逮捕されて罰金を請求されます。そんな不公平なことはあるかと住民たちが抗議しだして、公園側と何度も緊張が高まるようになりました。国立公園を作る際にきちんと地元住民に説明し、理解を得ていなかったことが原因です。

 ポポフはこれらの問題を解決し、ゴリラをはじめとした自然と人々が豊かに共存できるようにすることを目的として設立されました。大きな特徴は、ポポフが地元の人間が主体となっていることにあります。これまで自然保護と言うと、欧米の保護団体が専門家を送り込んで、欧米の自然保護の理念によって地元の人々を教育することが主眼になっていました。欧米で集められた資金が投入され、学校や病院が建てられて教育環境や衛生環境は改善されますが、資金が途絶えれば活動は停滞してしまうのが常でした。ポポフはゴリラツアーのガイドをしていた地元出身のジョン・カヘークワが中心になり、独学で画や彫刻を学んだダビッド・ビシームワや地元の青年たちが集まってできた組織です。そこに私やカニュニ・バサボセなどゴリラやチンパンジーの調査をしている研究者がアドバイザーとして参加しました。ジョンがガイドをしていた関係で、欧米や日本のマスコミ関係者が協力者として参加しています。ポポフは地元の人々の考えによって保護活動が考案され、実行されることになっているのです。

 ポポフはまず、村人たちの不公平感を緩和するために、ゴリラを見に来た観光客が他の自然や村の文化を楽しめるような観光プランを作りました。ネイチャートレールやヴィレッジ―ツアーの施設を整備して、観光客が地元にもお金を落とせる仕組みを考案したのです。続いてゴリラにちなんだ民芸品を作成し、それを販売して収入を得るようにしました。そして、公園側に観光収入の一部を地元の発展のために使い、野生動物の畑荒らしを防ぐ方策を立てるように働きかけたのです。

 しかし、観光事業はすぐに頓挫してしまいました。1994年に隣国のルワンダで民族紛争が起こり、100万人以上の難民たちがこの地域に流入してきたからです。カフジ・ビエガ国立公園のすぐそばに40万人規模と5万人規模の難民キャンプができ、国境は封鎖されて観光客の足がぷっつり途絶えました。敗走してきた旧ルワンダ政府軍や民兵が大量の銃をもちこんだために、安価で銃が出回るようになって密猟が急増しました。難民たちの注文で薬草や薪を採りに保護区へ入る人々も増えました。ポポフをそれを食い止めようと難民の支援でやってきたNGOと協力して、難民たちに食料や炭を配る運動を展開しました。そして、密猟を防止するために村々を回って広報活動を展開したのです。

 ところがその2年後の1996年に、今度は自国で内戦が勃発し、反政府軍が公園周辺の町や村を支配するようになりました。人々は一斉に家を捨てて森へ逃げ込み、数週間から数カ月も森の中で隠れていなければなりませんでした。1997年に新政府が設立されて内戦は終息へ向かい、難民キャンプも閉鎖されましたが、その後もさまざまな勢力があちこちで衝突し、今に至るまで不穏な情勢が続いています。森の中でも戦闘が相次ぎ、多くの野生動物が犠牲になりました。密猟や不法行為を監視するレンジャーたちが兵士たちに銃を取り上げられ、パトロールができなかったからです。2000年に実施された調査で、それまで公園の山地林に生息していた450頭のゾウのほとんどが、260頭いたゴリラの半数が消失してしまったことが明らかになりました。

 事態を重く見た公園当局とポポフは、村人たちに協力を呼びかけました。これまで保護区内で行った不法行為を問わないので、密猟の経験者は名乗り出てほしい。その知識を経験を今度は保護区を維持するために使ってもらい、積極的に雇用すると申し出たのです。60人を超える人々が名乗り出て、公園やポポフで働くようになりました。不法行為を監視したり、保護区の境界やネイチャートレールを整備する仕事です。公園の境界に防護柵を作って、野生動物が畑へ侵入しないようにする事業にも従事するようになりました。彼らの協力を得て、ポポフは苗木センターを作りました。村人たちが森へ入らなくても薪や建材を自前で入手できるようにしたのです。アートセンターでも積極的に彼らを雇用して民芸品を製作するとともに、狩猟採集民トゥワ人の女性たちに洋裁を教えて収入が得られるようにしました。さらに環境学級を設立して、子どもたちに故郷の自然やそれを維持する大切さを教えることになりました。先生になったのは公園でパトロールをしていたレンジャー、それに自然をよく知っている元密猟者の人々です。

 最初に環境教育学級の生徒になったのは、トゥワ人の女性たちでした。女たちが自立できる仕事を身につけ、自然を保護する大切さを理解すれば、男たちの不法行為を止められると考えたからです。やがて、環境教育学級は就学前の児童から大学へ進学する前の生徒まで幅広い教育を行うようになりました。今では国立公園や地元にある農業研究所と協力して、大学進学前の2年間は国立公園でレンジャーの実習をしたり、研究所でアグロフォレストリー(農林学)の技術を学べるようになっています。ポポフの学校は政府にも正式に求められ、最上級生は毎年国家試験を受けて大学への進学資格を取得します。その合格率は国で3番目に高い成績を誇るようになりました。

 苗木センターもポポフの学校の生徒たちの協力で運営されています。1997年以来すでに400万本の苗木を近隣の村に配りました。苗木は大きくなるまでに7年かかり、成長すると建材、炭、薪など多くの用途に使われます。生徒たちは自分たちが暮らす村を中心にこれらの苗木の世話をし、成長を見守ります。また、ポポフの学校では2つの養殖池を運営して成長の速いティラピアを養殖しています。これらの魚を定期的に村に配り、不足しがちな動物タンパクを補い、密猟を防止しようという試みです。村にブタ、ヤギ、モルモットを配って増やそうという計画も実行中です。とくにモルモットは道端の草を食べ、子どもたちでも飼育できるので人気の的になっています。

 こうしたポポフの努力が実って、密猟はめっきり減りました。ゴリラの数も今年は170頭を超えるまでに回復し、たくさんの子どもが生れてベビーブームが到来しています。人付けした群れの数も4つに増え、再び観光客にもゴリラの自然な生活を見せることができるようになりました。バサボセと私は1991年以来トゥワ人たちの協力を得て、ゴリラとチンパンジーの調査を続けています。気候や植生の変化に応じてこれらの類人猿たちがどのように暮らし向きを変えるかという調査です。20年以上モニターを続けることで地球温暖化の影響や、熱帯山地林の生態系に果たしている彼らの役割がわかってきました。熟した果実だけを食べ、果実が不足する時期は地上性の草本を大量に消費するゴリラは、植生を傷めることなく維持し再生させることに貢献しているのです。

 グレイトエイプス保護基金は、これらのポポフ活動を支援するために使われています。私たちはポポフが設立された翌年の1993年に日本支部を立ち上げ、アートセンターが制作したゴリラの彫刻や絵をデザインした絵葉書を販売して活動資金を集めています。日本支部でもポポフの活動に賛同するアーティストたちの絵を用いたエコバック、Tシャツ、うちわ、カレンダーなどを作成して販売しています。また、毎年ニュースレターを発行して活動資金がどのような活動に使われているかを報告し、ゴリラたちの近況を伝えています。支部のある京都を中心に報告会やさまざまなイベントも催しています。詳しいことはホームページ(http://pole-pole.sakura.ne.jp/blog/)をご覧になっていただきたいと思います。

 ポポフは今年設立20周年を迎えました。9月には地元で20周年を祝う式典が催され、これまでポポフの活動を支えてきた人々や地元の村人、生徒たちがたくさん集まって喜びを分かち合いました。みな口々にこれまでの苦労や成功、失敗の思い出を語り合い、生徒たちは創作した詩を朗読し、劇を演じてポポフの活動を讃えました。地元の人々だけの力で、しかも戦火の続く中で20年も継続できたのは奇跡的なことだと思います。グレイトエイプス保護基金にご協力頂いているみなさまに深い感謝を表するとともに、思いを新たにして今後もポポフ活動を推進していこうと思っています。