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麺王決定!


「博多一風堂」河原成美

四天王


「中村屋」中村栄利

生年月日:1977年1月1日
年齢:28歳
出身地:神奈川県厚木市

プロフィール

 幼い頃から料理に興味を持ち、よく母親の手伝いをしていた中村は七草粥の草の名前の由来を聞いたりするなど自然と食材の知識を増やし料理法も覚えていった。

 少年時代はおちこぼれで、成績はクラスでいつも下から3、4番目。結局、日本の大学に入れずコンピューターを勉強するためにカルフォルニアのミラ・コスタ大学に留学。

 アメリカでは母から教えてもらったレシピ通りによく自炊でスープを作っていた。インスタントラーメンもお湯ではなく自作のスープで食べるというほどの凝り性。そんなある日、中学時代から思いを寄せていた「麻衣さん」(現在奥さん)がアメリカを訪れた。貧乏暮らしのため中村が彼女にご馳走したのがあのカップラーメン。たかがカップラーメンだが中村は味には自信を持っていた。
しかし、それを食べた彼女からは意外な言葉が。

「私、カップラーメンを食べたことがなかったから、これがおいしいのか、どうかわからない。ごめん。」

それを聞いた中村は決心をする。

「麻衣ちゃんが本当に美味しいと言ってくれるラーメンを絶対作ってみせる。」

 98年、帰国後すぐにバイトをしながら自宅の庭にあったプレハブ小屋でラーメン作りを徹夜で励んだ。
そんな中、一緒に味見をしたりして中村を励まし続けたのが「麻衣さん」だった。

 99年9月、弱冠22歳で神奈川県大和市に「中村屋」をオープン。お店が軌道に乗り始めた頃、中村は「麻衣さん」に厨房内でプロポーズ。
その後、開店わずか3年で日本を代表する行列店を作った。

中村の持論は「人のマネは格好悪い。」

「味」のこだわり

◆必技!天空落とし
「天空落とし」とは、茹で湯から振りザルで引き上げた麺を、腕を高々と上げて上方に位置させてから一気に振り落とす、落差を生かした中村店主のオリジナル湯切り!
◆芸術的な味
スープはゲンコツ・鶏がらをベースにカツオ節やサバ節、にぼし、昆布などの魚介類を使用したバランスの整った薄口の醤油味。
タレは醤油ベースで圧力鍋で油出した鶏のエキスを加える。
スープには素材のうまみが出る軟水を使い、深く濃厚なダシを引き出している。
◆具材にも手を抜かない!
ローストビーフの感覚でつくるというチャーシューは肩ロースと真空調理のさっぱりとしたヒレ肉を使用。メニューによって変え、具としてのせる直前に炭であぶって風味がつけられる。
中村屋のラーメンには、半熟玉子、乾燥メンマ、刻みネギ、海苔、和風だしで浅漬けした小松菜などたっぷりな具が乗るのも特徴的!
◆こだわりの特注麺
真空ミキサーで撹拌した、もっちりと引き締まった食感の「真空平打麺」は長後の製麺所の長後庵に特注。

「麺屋武蔵」山田雄

生年月日:1953年
年齢:52歳
出身地:東京都

プロフィール

 中学時代は荒川区立第5中学校の野球部に所属しエースで四番、チームの大黒柱だった。

 高校卒業後、アパレル業界に飛び込み、80年、原宿に洋品店を開く。
83年、青山にアパレルメーカーを設立、年商23億の青年事業家に。
しかし、バブルの崩壊で数十億という大借金を背負っってしまう。
その後、某商社の管理下で負債・残務処理を2年間することを条件に借金を棒引きにしてもらう。

 お金も財産もすべて失った山田は、食べ物の屋台でも引こうかと思っていた。
そんなある日、アパレル時代の友達が山田の家を訪れた。
ほろ酔いの佐藤がこんな言葉を漏らした。
「サンマの煮干しで取ったダシの味と香りが忘れられねぇ」(この友人こそ、麺屋武蔵を山田と共に立ち上げた佐藤氏)
その何気ない言葉に山田は閃いた。山田は翌日から「サンマの煮干し」を求め、紀伊半島、房総半島、東北など日本中を歩くが、なかなか見つからない。
もうこの地を最後にしようと訪れた宮城県石巻でついに「サンマの煮干し」に出会う。
「この香りと旨みはラーメンが一番合う!夢のラーメンを作ろう!」と山田はラーメン屋になることを決心する。

 屋号は誰にも教わっていない。まさに無手勝流ということで「麺屋武蔵」にする。

 96年、「麺屋武蔵」を青山にオープン。2年後、店を新宿・小滝橋に移し、さらにエビ油の発明も加わり行列のできる店になった。

 この頃、「ご当地ラーメン」ならぬ「ご当人ラーメン」なる言葉が話題を呼んだ。いわゆるラーメンブームの到来である。
そして麺屋武蔵の山田はラーメンブームの輪の中心にいた。

「味」のこだわり

◆サンマの煮干し
獲れる時期が1年に1度しかないので、貴重なサンマの煮干しは1年分まとめて買い冷凍しておく。
◆武蔵流のスープ
特徴は、とりがらと豚骨を主体とする動物系スープとサンマの煮干しのスープを丼の中でブレンドするWスープ!
サンマの煮干し、エビ油、羅臼こんぶなど十種類以上の素材を使った無化調のスープ。アクセントに入る柚子の皮をそえればさわやかな風味が漂う。
◆武蔵ラーメン4つの教訓
ラーメンは「手間をかけること」「労をおしまないこと」「面倒くさいと思わないこと」「日々努力すること」
◆スープは西洋料理のストック法!
スープの作り方にはこだわりがある。骨はまず下茹でし、アクを洗い流してから使い、その後また一定時間煮たら漉し、最後に冷蔵庫で貯蔵するという手法。これは西洋料理のストックの作り方と同じである。手間をかけることで、臭みをなくし、一定した味のラーメンをお客に提供することができる。
◆麺は上品な醤油味にあうコシのある「やや平打ちの中太麺!」
◆店内はレストランのような内装
内装は白を基調としたラーメン店の多い中、武蔵はダークウッドパネルを使った壁面と、そこに掛けられた明治期の看板。厨房内まで統一された光の色温度などアパレル業を前職としていた山田氏のセンスが感じられるオシャレな作り。

「なんつッ亭」古谷一郎

出身地:神奈川県泰野市

プロフィール

 10代の頃、横浜でバイク暴走、ケンカに明け暮れ警察に世話になること数知れず。
高校は退学、街の嫌われ者になっていた。ヤクザの使いっぱしり、チンピラ、果ては地上げ屋まがいの事までしていた。20歳になっても定職にはつかず、パチプロ同然の生活で毎日大酒をくらっては暴れまわっていた。
近所の居酒屋に毎日顔を出して楽しく飲んでいたまでは良かったが、あまりに毎日顔を出すのでいつしか「居酒屋番長」と陰口を叩かれ、そんな古谷に嫌気がさした暴走族の友人達もしだいに離れていった。
そんな古谷を見捨てず影で支えていたのが恋人の「友子さん」だった。(現在の奥さん)
古谷の人生の転機は2人がドライブしている時ふいに訪れた。
偶然通りかかった海で地引網をしているおばあちゃんの姿を見て、古谷は「あんな年でも一生懸命働いているんだな」と号泣、「俺の人生このままじゃダメだ!」と気づかされた。

 しかし、それでも定職に就けないでいた古谷に二度目の転機が訪れた。
古谷は「テレビのラーメン番組」を見ていた時、出演していた店主の「とんこつラーメンは気合と根性!」という言葉に感銘を受けラーメン屋になることを決意する。(かなり単純なきっかけだがこの点もかなり古谷らしい。)

 すぐさま古谷は「ラーメン屋になるために九州で旨いラーメン屋を探す」と友子さんを誘い二人はトンコツの本場・九州へと旅立った。この時、友子さんは自分の車を売って、さらにアメリカ旅行のために貯めていた貯金を全て降ろして費用に当てている。

 2人は九州各地で食べ歩いた。そして古谷は熊本県人吉市にある一軒の店の味に惚れこんだ。それが「好来(ハオライ)」のラーメン。2人は熊本に移り住み、酒屋でバイトしながら1年間修行を積み好来の味を自分の五感のみで盗んだ。

 97年9月、父親のお金を担保に銀行から融資をしてもらい神奈川県渋沢市に「なんつッ亭」をオープン。しかし開店2週間で客がパタリと途絶えた。自信とやる気を失っていた古谷に友子さんは涙を浮かべながらこう言う。

「私が、何であなたと別れず一緒に働いたかわかる?人は愛する誰かのために働くのよ!」

この一言で奮起した古谷は、毎日仕込み室にこもり試行錯誤を繰り返した結果、理想のラーメンの完成させた。 再び客が増え始め2003年にはラーメンオブザイヤーグランプリ受賞。毎年、トンコツラーメン部門の優秀賞を受賞する日本を代表するトンコツラーメン職人になった。

「味」のこだわり

◆好来直伝のマー油
「なんつッ亭のこだわりといえばマー油。マー油とは、7段階にわけて揚げた「にんにく」、揚げ油、ゴマ油の3つを秘伝の技法でブレンドして出来上がる真っ黒なうまみのある油のこと。
豚の頭、ゲンコツトリガラを不純物を取り除いたピュアな水で丸1日煮込んだコクのあるスープと真っ黒な風味豊かなマー油。この2つの調和がなんつッ亭のうまさの秘密。
◆自社で研究したマー油スープにあう麺
自社に製麺室をかまえ研究した麺は、2種類の粉を混ぜ合わせて、博多とんこつラーメンのものよりやや水分が多めの弾力性を持たせた自家製ストレート麺。
◆豊富なメニュー
マー油が売りのラーメンや、昼20食限定の「しおラーメン」に、新鮮なカツオとサバを贅沢に使用し、特製醤油ダレを使ったトンコツ魚介醤油ラーメン、「ぼくの空」などメニューが豊富。
店主「古谷」の口癖は、「うまいぜベイビー」 店前の看板にはこの言葉しか書かれていない。

「博多一風堂」河原成美

生年月日:
1952年12月18日
年齢:53歳
出身地:福岡県城崎町

プロフィール

 父は美術教師、兄弟は彫刻家、新聞記者、パイロットなど人も羨むエリート一家の末っ子として生まれた。

 中学時代、マンガ家を夢見ていたがすぐにあきらめ、高校では演劇に目覚め、卒業後、上京し「前進座」の養成所に通ったが、演技の指導をされただけで喧嘩するなど、つまらないことでその道もあきらめてしまう。

 地元福岡に戻り兄のコネで地元のスーパーに就職するも気持ちが入らず次第になげやりになり、遂には高校時代の友人と窃盗事件をおこしてしまう。
進学校で教鞭をふるっていた父は即座に辞表を提出し、裁判では証言席に立ち涙ながらにこう語った。
「私は教師として多くの生徒を教えてきました。でも自分の子供一人、満足に育てることができませんでした。すべて私の責任です」この姿を目の当たりにした河原は、「自分は”ゼロ”になろう。ゼロになって人生をやり直そう。」と決心。

 26歳、兄の紹介で博多にわずか五坪のレストランバー「AFTER THE RAIN」をオープン。「三十歳で福岡の中心地天神区に移転する」「三十三歳で二店目を出店する」「三十五歳で一生の仕事を見つける」と人生初の目標を掲げ再スタート。

 売り上げはドンドン伸びていき軌道に乗り始めていたある日、女性客がラーメン屋に対し「汚い」「臭い」「怖い」といった悪いイメージを持っていることを知り、「女性でも気軽に入れるラーメン店」を作ろうと決意、目標通り33歳で福岡大名に自分のお店2店目となる「博多一風堂」をオープン。

しかし、お店が大きくなるにつれ自分一人ではコントロールできなくなることを知った。河原はここで初めてこう思った。「従業員を育ててなかった。」

その後、河原自ら従業員を徹底指導すると次第にお店は活気を取り戻していった。

94年、新横浜ラーメン博物館に出店、97年、99年、2000年のTVチャンピオン・ラーメン職人選手権で3連覇で殿堂入り。

04年、ラーメン界では異例の上海に進出。現在、国内に29店舗、海外に6店舗のお店を構える日本を代表するラーメン屋になった。

河原のポリシー「ラーメンとは “生きる力の源” “幸せの原点”」

「味」のこだわり

◆飲食業は演劇だ!
芝居を志していた河原氏の哲学。お店を舞台。店員を役者。お客様をゲストに例え、ゲストが満足するパフォーマンスがラーメン!
◆一風堂のスープにあう究極の麺
自社工場で一風堂のスープにあう配合を厳選した麺は、打ち上げてから丸一日寝かし、その日の気温、湿度によって水分配合やこね時間を調節するなどし、いつ食べても一番おいしいラーメンを提供している。
◆赤丸新味
創業10年目を向かえた平成7年に誕生した「赤丸新味」というラーメンのコンセプトは「一風堂が表現する新しい博多ラーメンの歴史を作ろう」一昼夜煮こんだ濃厚な豚骨スープに数種類の野菜と油をブレンドした自家精製油の香油でスープ本来の旨味を引き出した一風堂の看板ラーメン。
◆白丸元味
昭和60年創業から多くのお客に支持されているラーメン。スープはゲンコツと背骨で煮出した上品なスープと豚頭だけの昔ながらのスープをブレンドしたWスープ。
◆ラーメンに合わせたチャーシュー
白丸元味には、特製のタレにつけ込まれたサッパリ味のモモ肉。赤丸新味には、コクと深みのあるスープに負けることなく味付けされたバラ肉を使用している。