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<小説版>ああっ女神さまっ 初終 ―First End― 外伝
夢みる翼
LAST EPISODE「夢みる翼」 「そんな顔で見ないで下さらない?…当の本人が一番びっくりしているのですから」 システムルームの扉にかけられた法術の振動が、重苦しい空気を震わす。 「…ペイオース…あなた…」 想像もしなかった一級神の行動に、さすがのウルドも驚きを隠せず、ただただ見つめるばかりだ。その青紫の瞳にわずかに視線を投げてから、ペイオースはゆっくりとシステムを見上げた。 点滅する無数のライトが川のように流れてゆく。 「…無茶な人…」 ここのところ、彼女が天界にちょくちょく戻って来ては、熱心にシステムの洗い直しをしたり、30層以上も下層にあるユグドラシル中枢メインコントロール第3ターミナル内ユニバーサルアクセスユニットで作業をしたりと…気になる予兆は随分前から感じていたのだが…それらが全て、今日のこの為だったとは思いもよらなかった。 普段は面倒臭いことが大嫌いな管理限定の二級神が、ここぞという時は一級神よりも大胆に…的確に行動する。 「本当に…無茶な人」 もう一度ため息交じりに繰り返す。 妹たちの為に二級神に留まっている半神半魔のウルド。 神属を愛し、誇りに思っているウルド。 今も、不安そうに寄り添うスクルドにさりげなく手を回し、気遣っているほどだ。 そんな彼女が天界を…そして妹を危うくするはずがない。 黒い瞳をまた銀髪の女神に戻し微笑む。 「ですけれど…馬鹿な人ではありませんもの…ね」 ペイオースの真意を十二分に受け止めながら、ウルドは悪戯っぽくウィンクした。 「…今度は褒め言葉として受け取っておくわ」 手の甲に煌めく深紅の石に向かって法術を小さく唱える。するとソフトボールほどの半透明の球体が浮かび上がって来た。 「ご好意に甘えて…説明ははしょらせてもらうわ。今はまず、これのセットを手伝ってほしいの」 球体の中には、公式たちが光の帯となって青く輝いている。 「セットって?」 「ユグドラシル・システムに組み込みたいのよ。でもその為には、まずシステムの調整をしないといけないわ…もちろん、あの第3ターミナル内のユニットもね」 「…ワルキューレを牽制しながら?」 結界法術と静かに対峙しているリンドたちの波動が感じられる。このままでは実力行使で攻め込まれるのは時間の問題だ。戦う翼の彼女たちは、至高の装具を前にしても怯むことなく挑んでくるだろう。 「やれないことは…ないわよ」 “フリズスキャルヴの黄昏”を自慢げに見せるウルドに、呆れながら深いため息を漏らす。かなり本気で言っているのが彼女のコワイところだ。 「…それは無茶ではなく無謀といいますのよ」 まずは自由に動ける環境を作らなければならない。ペイオースは姿勢を正すと凛とした声をあげた。 「…私はウルドを信じます」 扉の向こうのリンドたちに…そして部屋の中の女神たちに言葉を向ける。 「ワルキューレのみなさんも…そしてここにいるみなさんも…聞いて下さい。“フリズスキャルヴの黄昏”の無断使用がどれ程の大罪か…女神ウルドが知らないはずはありません。それでも彼女はここに戻ってきました。…ウルド、それは何故ですの?」 女神たちの視線が一斉に向けられる。 そんな中…ゆっくりと、でもはっきりと答えた。 「天界に危機が迫っているからよ」 一瞬、辺りにざわめきが走る。 「このまま放っておいたら、天界はおろか魔界も…そして地上界にも影響が出て…歪みの果てには…崩壊が待っている」 ざわめきが沈黙に変わる。 「…その危機は回避できるものなのか?」 その沈黙を破ったのはリンドの声だった。いつの間にか攻撃の波動は消えている。 「地上界での日没までに…セットして…ちゃんと起動できればね」 半透明の球体がきらりと光る。 「…分かった」 ワルキューレは静かに蒼い瞳を閉じた。 「ただし、女神ウルドはこの部屋から出ない事が条件だ。地上界の日没まで我々はここで“フリズスキャルヴの黄昏”を見守ることとする。もし何か不穏なものを感じたその時は躊躇しない」 そう言うとシステムルームの扉の前でワルキューレたちは待機の姿勢をとった。膝を抱え眠ったように動かなくなる。 「感謝するわ」 銀髪を掻き上げながらウルドが呟いた。 「…みなさんも…信じていただけます?」 強い信念を持った黒い瞳に…一級神ペイオースの決断に…もう誰も異を唱えるものはいなかった。天界を救う思いがひとつになる。 「女神ペイオース…そして女神ウルド…私もあなたがたを信じます」 女神フリッグが二人の前に歩み出た。最年長で皆からの信頼も厚い彼女の言葉に、張り詰めていた空気が一気に和む。女神たちは動き出し始めた。 「では、私はターミナルの調整に向かいます。女神ウルドはデータの転送を…女神ペイオースは指示をお願いします」 「女神フリッグ…お手伝いします」 ヴォールとスノトラがフリッグに従う。三人は法術が解かれた扉から第3ターミナルの下層ユニットへと飛び出していった。 「女神シギュンは女神ウルドのバックアップを」 「はい」 「女神スクルドには女神シフ。お願いしますわ」 システムオペレーターの二人がウルドとスクルドの隣の席につく。 「聞いてのとおり…セットする時刻は地上界での日没です。時間に余裕はありません。みなさん頼みましてよ」 膨大なデータが激しく流れ始めた。 「女神フレイアは私について」 「はいっ」 ペイオースの横に座り即座に操作を開始する。枝のように伸びたラインから一斉にユグドラシル・システムへと光が集まっていった。 「…ふぅ…なんとか間に合いましたわね」 調整が終わり、半透明の公式球体がセットされたのは、太陽がその身を半分以上静めた頃だった。あとは、指定した時刻にこの球体とユグドラシル・システムが接続すれば、天界は救われるはずである。 ペイオースは安堵とも取れる大きなため息を漏らした。他の女神たちもシステムを監視しながらもようやく一息つけた感がある。ワルキューレたちも待機の姿を保ったまま…静かに動向を見守っている。 「…スクルド、数値の変動には注意しておいてよ」 少し離れた席にいるはずの妹に声をかけたはずが…。 「先程、出て行かれましたけど」 答えたのは、バックアップをしている女神シフだった。 “やれやれ…やっぱりね…” パネルの光りの点滅を目で追いながらウルドは苦笑する。地上界にベルダンディーを迎えに行ったのだ。このタイミングだと入れ違いになる可能性大だが…言ったところで《お姉さま命!》のスクルドは聞く耳を持たないだろう。 “無駄足になっても知らないから” パネルの上で指を走らせながら黙々と作業を続けるウルドだったが、視線に気づき顔を向けた。 「…何?」 黒い瞳がじっと見ている。 「…そろそろきちんと説明して下さいませんこと?」 ペイオースは、少し椅子に背中を預けると優雅に腕組みをした。聞く気まんまんだ。 「…そう…ね」 曖昧が大嫌いな彼女が何も聞かずにここまで協力してくれたのだから、もちろん説明はしたい。だが、事の経緯はあまりに複雑かつ膨大で…残された時間内に今まで起こった事を説明できる自信は正直ない。とはいえ、答えないのも失礼にあたる…しばし考え込んでから、まずは答えを簡潔に述べてみることにした。 「復元するのよ…この天界を。ニドヘグと同時に…」 「復元…?」 「そう。時間を戻すの…過去にね。天界も魔界も地上界も全てリセットされるわ」 「リセット?」 「…正確には二回目なんだけどね。最初のリセットが完全ではなかったから、今回またやる羽目になった…って感じかな」 「かな…って…ちょっとウルド…訳がわかりませんわ。初めからきちんと…」 案の定、ペイオースにとっては意味不明で、しかも理解不能な言葉だらけだ。順序立てての説明をさらに求めようとした、その時。 「…ちょっと待って下さいっ!」 二人の会話に割って入ってきたのはフレイアだった。 「女神ペイオース、失礼をお許し下さい…でも…今、時間を戻すとか、戻さないとかって…いったいどういう意味ですか?」 最初は聞くともなしに、隣で作業しながら耳を傾けていたに過ぎなかったのだが、“時間を戻す”というとんでもない言葉によって、彼女の中で事態が急変した。 「時間を戻すなんて…私…今日これから一級試験なんですよ」 そう。突然のトラブルでバタバタしてしまったが…待ちに待った“月の目覚める頃”はすぐそこまで迫っているのだ。今更中止なんて悲しすぎる。 「講習期間も終わって…ハヴアマールも受かって…」 「あら…おめでと。ハヴアマールは大変だったでしょ」 「ええ…そりゃあ、もう…って。だ・か・ら時間が戻ったら、またやり直しじゃないですかっ」 この半年間の出来事が走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。難しい法術の暗唱に…武術訓練…精神的に辛かったが大切なものを見つけることができたハヴアマール…。丁寧に親身に教えを説いてくれた女神エイルや女神リンドの顔まで脳裏に浮かんでくる。 「やっぱり…あなたが来るとろくな事がないですっ」 「そういう素直なとこ…好きよ」 悪戯っぽく微笑む青紫の瞳を、エメラルドグリーンの瞳は睨みつけていた。爆発寸前のフレイアに焦るペイオースだが、その脇からウルドがさらに追い打ちをかける。 「…丁度いいわ。こんなチャンス滅多にないんだから、お互い思っている事を全部言っちゃうって…どう?」 「それって…どうせ記憶がなくなるから…という理由だからですの?」 「そうそう。後腐れなくていいじゃない」 「まったく…あなたという人は…」 呆れ顔のペイオースの前に、いぶし銀色のパッドが突然差し出された。画面には、今まで書き記した日記が記録されている表示がある。 「腹を割ったお話…大賛成です」 「フレイア…どうなさるおつもり…?」 「きちんと残しておくんですよ。女神ペイオース」 「でも…リセットされたら…」 「いいんですっ!…女神はいかなる時でも諦めてはいけないのですっ」 分かるような分からないような理屈だがフレイアは大真面目だった。ありったけの想いをぶつければパッドにデータが残るような気がする。いや、この憤りを記さずしてなんの為のパッドだろう。 「あら…でも以前の世界では、私とあなた…結構上手くやってたのよ」 「ありえませんっ」 書き込みながら無表情に即答した。天が落ちて海に飲み込まれても…この人と仲良くなるなんて絶対にないと断言できる。 「では…改めて言わせていただきます」 パッドの記録を確認しながら褐色の女神を見据えた。 「女神ウルド…ちゃらんぽらんで自分勝手で…あなたなんて…あなたなんて…」 フレイアの心からの絶叫がシステムルームに響き渡ろうとする…その瞬間。 「…姉さんっ」 プロテクトを外した真の一級神の姿でシステムルームに入って来たベルダンディーの声に、皆の視線が集中した。 「ベルダンディー」 プラチナブロンドをなびかせ…アメジストの瞳に涙をいっぱい浮かべた女神は、ウルド目がけて駆け寄って来る。そんな妹を姉は精一杯優しく抱きとめた。 刹那、時を告げる音が高らかに鳴り響く。 夜を告げるフリムファクシのいななきが風に消える。 “あなたなんて…” …叫ぶことができなかった最後の想いを記し、フレイアはパッドを抱き締めた。 太陽と大地が交わったその時…ユグドラシルはニドヘグと共にまばゆい光に包まれ…全てが静寂へと融けてゆく。 暖かな光は、はるかなる過去…いにしえの未来へと導きあふれていった。 白亜の塔に暖かな陽の光が降り注ぎ、緑深く生い茂る木々の間を吹き抜ける風は爽やかに、水色の空へと放たれる。 しばらく窓から外を眺めていたベルダンディーは、優しい昼下がりに心躍らせる様に鏡の前に立った。法術を唱える微かな声が漏れた途端…身体から溢れる様に光が零れ出す。部屋着であるローブは徐々に女神の正装へとその形を変え…青と白の衣がふんわりと肌を隠して行く。 今度は右手を左の耳の封環に軽く添えると、封印の法術を掛けた。 「ふぅ…」 プラチナブロンドだった髪が淡い栗色へ色づき背中に流れる。その髪をポニーテールに結い上げて、準備は完了だ。鏡の前で軽やかに一回りをしたベルダンディーは、満足そうに頷いた。 「さて…と」 ちらりと時計に目をやり、まだ時間に余裕がある事を確認すると、さっそく茶器のセットをテーブルに運び、長椅子に腰掛ける。 「今日は…これにしましょう」 いくつかある茶葉の中からダージリンを選び、ポットに入れた。 地上界の習慣を検索していた時にたまたま見つけた、英国式のティータイム。何故だかそれを一目見た時から気に入り…今では、仕事前に必ずお茶の時間を設けていた。 「…いい香り…」 カップの中で琥珀色のお茶が、豊かな香りを立ちのぼらせる。 「そういえば…地上界のシェア争いで、また魔属と衝突したって…姉さんが言っていたわ…」 今朝届いたばかりの情報パッドに手を伸ばす。 案の定、トップに大きく記されているのは、天界と魔界の熾烈なシェア争奪戦の内容だった。 「…やっぱり」 ラベンダー色の瞳が少し陰る。 ここ最近にしては珍しい程、地上界での争いが日々エスカレートしているらしく、天界でもその話題で持ちきりなのだが…ベルダンディーにとって、決して好ましい話とはいえなかった。元々噂話は好きでは無いし…姉のウルドを思えば心穏やかでは無い。 「…今日のオペレーションルームでも、話題はこれね…」 小さなため息をひとつついたその時…時を告げるオルゴールの音色が優しい音を奏でた。 靴音が、ドーム状になっている高い天井にこだまする。 アーチ型の柱が重なり合う様に立ち並ぶ白銀の回廊は、ベルダンディーにとって大好きな場所のひとつだった。 電話ひとつで、巡り会った相手に幸せを与える事が出来る…それは一級神として最高の喜びを得られる仕事の一つであった。 “今日も…素敵な出会いがあるといいのだけれど” 少し足を速めた瞬間、突然背後から呼び止められた。 「お姉様!」 反響した声がドームに余韻を残す。回廊を中程まで渡ったベルダンディーを追いかけ走って来るのは、妹のスクルドだった。 「まあ…どうしたの?」 確か…この時間は、ウルドと一緒にシステム管理に就いているはずだ。システムルームはオペレーションルームとは反対側の棟にあり、回廊を渡って来るだけでも結構な距離だ。 大きく息を弾ませた小さな女神が、やっとベルダンディーの元へ辿り着くと、甘える様に姉に抱き着く。 「スクルド…そんなに一生懸命走って…」 黒髪を優しく撫でながら、荒らげる息が収まるのを待つ。 姉の香りに包まれ、心も息も落ち着いたスクルドは、おもむろにスカートのポケットから小さな箱を取り出した。 「あのね…お姉様のものが何故か…わたしの所にあったの」 手の中で四角い小さな銀色の箱が光っている。だが、差し出されたそれに、ベルダンディーは全く覚えが無かった。 「…私のものでは無いと思うのだけれど…」 「えっ…でも…メモが入っていたのよ」 「メモ…?」 「ほら」 そう言って開かれた小箱には、メモと呼ぶにはあまりに情けない紙の切れ端が入っていた。お姉様のお姉…という文字が辛うじて読み取れる。 「でも…この字はあなたの字よ、スクルド」 「…そう…それも謎なの」 確かに自分の筆跡なのだが、こんな事を書いた記憶も無いし…ついでに、こんな小箱を見た事も無い。 考え込むスクルドの手から箱を取ったベルダンディーは、中にもうひとつ…収められているものを見つけた。 「あら…」 繊細で美しいティアラの形をした金色の指輪が煌めいている。 「これも…私のもの…?」 「あ〜ん…ごめんなさいっ…全然分からないのぉ」 にっちもさっちも行かなくなったスクルドはとうとうギブアップの声を上げた。姉の元に届けさえすれば解決だと安易に思っていたのだが、どうやらベルダンディーにも心当たりが無いものだったらしい。 「どうよう…これ…」 しゅんと落ち込むスクルドに、ベルダンディーは優しく微笑んだ。静かに小箱の蓋を閉め、懐へしまう。 「…ありがとうスクルド…わざわざ届けてくれて…」 「え?」 「仕事が終わったら…後でゆっくり調べてみるわ。もしかしたら何か意味があるものかも知れないし…」 「…確かに」 システムを調べれば何か分かるかも知れない。何か理由がなければここに存在するはずはないのだ。 「じゃあ…わたしも手伝うわ。お姉様」 「ええ。お願いね」 「うん!」 すっかり元気を取り戻したスクルドは、満面の笑みでベルダンディーに手を振ると、振り向きたい気持ちを抑えて、来た回廊をまた一目散に走り出した。 “うわぁ…マズい…遅刻だわ。ウルドに怒られる” 自分が遅れた時は何だかんだと言い訳をするくせに、妹が遅れると容赦がない。まずは、げんこつグリグリだ。その後さらに、なんの意味ももたないメカを見せられる…というお仕置きが続く。 「それだけはイヤ〜ッッ」 機能美と合理性を求めるスクルドにとって、それは耐え難い苦痛だ。絶対に避けねばならない。 “よしっ” エントランスを抜け、一直線の廊下に出た。ここが時間を稼げる唯一のポイントだ。一気に加速しようとした身構えた瞬間…廊下から歩いてくる、もう一つの人影が目の前でクロスした。 “ええっっ〜〜” 危ない…と思っていてもスピードがのった足は止まらない。 「きゃっぁぁっっ」 にぶい衝撃の後…ゆっくりと本や資料が宙を舞う。派手な音を響かせそれらが床に散乱するのと、ぶつかった身体が倒れるのと…ほぼ同時だった。 「あいたたた…」 おでこをさするスクルドの脇で、黄金色の髪をした女神がうずくまっている。 「ご…ごめんなさい。ケガはないですか?」 「ええ…ケガはないわ、大丈夫…でも…びっくりした…」 心配そうに覗き込む小っちゃな女神に、優しいエメラルドグリーンの瞳が微笑む。 「よかった…」 ほっと胸を撫で下ろして気が付けば…二人の周りには本や資料が見事に散らばっていて大変なことになっている。 「やだっ…」 スクルドは慌てて拾い始めた。紙吹雪のように舞った資料はページを確認しながら丁寧に集めてゆく。 「ありがとう」 自分も辞典や本を拾い上げる。そして少し離れた所に落ちていた、いぶし銀のパッドに手を伸ばした時…女神の動きが止まった。 「…まあ…どうしましょう…」 呟く悲しげなその声に、スクルドが束ねた資料を抱え駆け寄って来る。 「どうしたの?」 「パッドが…」 大きな液晶の画面にはヒビが入り…電源もきちんと入らない。入っても、信号がうまく伝わらないのか表示される言葉は意味不明となっていた。 「…困ったわ…今日が準一級講習の初日なのに」 姉のベルダンディーに憧れているスクルドも、いつかは一級神になりたいと思っているひとりだ。準一級神の研修期間が、いかに大変で大切なものかは十分理解している。 不安そうに見つめている女神の手からおもむろに壊れたパッドを取ると、今度はその手を取りやおら走り始めた。 「大丈夫。なんとかなるわ」 「…え?」 「ちょっと遠回りだけど…わたしの部屋まで来てくれる?」 「ええっ?」 再びエントランスまで戻り、少し奥まった通路に入る。程なくしてアールデコ調の模様が美しい扉が三つ並んでいる廊下に出た。 「少し…待ってて」 そう言うとスクルドはその内のひとつの部屋に消えて行った。ひとり廊下に残された女神は、ためらいがちに辺りを見回してみる。 “時の女神たちの部屋に通じる通路なんて…初めて入ったわ” 三神の部屋しかないこの広いフロアは…当然、他の神々の往来はない。女神の中でも特別な存在の彼女たち故の待遇だった。自分たち準一級神たちの部屋があるフロアとはあまりに違う雰囲気に、どうにもこうにも落ち着かない。 「はあ…」 深いため息と共に、胸に抱き締めた本に顔を埋めた。できることならこのまま走り去ってしまいたい…そんな衝動を抑えながら顔を上げた瞬間…。 「おまちどうさま」 黒髪をなびかせスクルドが飛び出してきた。 「はい、これ」 満面の笑みでパッドを差し出す。 「…え?」 いぶし銀というよりは…淡いシャンパンゴールドに似た色をしているそのパッドは、どう見ても自分のものではなかった。画面も少し小ぶりで、縁には細工が施されている。 「あの…」 「あなたのパッドは必ず直すから、それまでこれを代わりに使っていてほしいの…」 新たなパッドを手渡されたことよりも、何故これが彼女の元にあるのかが疑問だった。 通常パッドの所有は、一級神か一級神仮免中の準一級…または管理に特別に携わる二級神のみに許されている。まだ二級神一種限定である彼女が持てるものではないのだ。 「…これは…どなたのものですか?」 「ウルドの」 「は?」 付け加えるなら…勝手なパッドの譲渡は禁止されている。たとえそれが時の女神であってもだ。 「そんな…いけません」 「大丈夫よ。黙っていれば分からないわ。…ウルドが管理限定になった時に貰ったらしいんだけど…ああいう性格でしょ。いちいちパッドなんか使わないって、無理矢理わたしにくれたんだけど…わたしも興味ないからしまってあったの。ちょうどよかったわ…使ってあげないとこの子もかわいそうだし…ね」 「……」 「もちろん、ずっとじゃないわ。ほんの二、三日よ。それだけあれば必ず修理できるから…それまでの間だけ使っていて」 強引に手渡される。 「あの…」 「じゃあ…わたしもう行かなくちゃいけないから…できあがったら届けるから、ネ」 いつでもマイペースな小っちゃな女神は、言いたいことだけ言うと…部屋の前に彼女を残したまま風の様に走り去っていってしまった。 その後ろ姿とパッドを交互に見つめながら呆然と立ち尽くすことしばし…そしてはたと気が付いた。自分も決して時間に余裕があるわけではなかったということを。 「いけない…急がなくちゃ」 黄金色の髪をなびかせ、足早にその場をあとにする。静かな廊下に響く自分だけの靴音がやけに耳についた。 「すみません…遅くなりました…」 全力疾走で駆け込んでみたものの、広い講義室に他の女神たちの姿はなかった。 「…あ…ら…」 時を告げるオルゴールが鳴り終えてからかなり経つ。初日から遅刻とは前途多難だ。 「女神フレイア…待っていましたわ」 そんな彼女に、艶やかな声がかけられた。 ファイルを読んでいた黒髪の女神が振り向く。 「え?」 予期せぬ待ち人にフレイアは困惑した。確か…自分の師は女神エイルだと聞いていた…だが…色気のあるしなやかな足を組み替え、頬杖をついているのは一級神二種非限定の女神ペイオースだったのだ。 「あの…女神エイルは?」 「ああ…彼女は“トネリコの木”の治療に出掛けられましたわ。どうしても遅れることのできない約束だからって…ですから私につくはずだった女神ヴォールとあなたを交換しましたの」 「は…い…」 己の遅刻が多大な迷惑をかけてしまったようだ。後悔先に立たず…そして減点は間違いないだろう。だが、フレイアは即座に気持ちを切り替えた。これからの半年間で挽回してゆけばいい。 「失態をお許し下さい。女神ペイオース」 正式な挨拶を優雅にこなす。 「本日から師事させていただきます…フレイアでございます。未熟者ですが…何卒よろしくお願い申し上げます」 そして深々と頭を下げた。その潔い態度にペイオースは微笑みをこぼす。 「こちらこそ…よろしく。優秀な成績で準一級の試験にパスしたと聞いています。頼もしいわ」 「いえ…まだまだです」 真っ白い頬は上気し白桃の様にピンク色だ。 これから準一級神の為の研修が始まる。目指すは憧れの一級神二種非限定。その試験に向かって様々な課題に臨まなければならないのだ。フレイアは改めて気を引き締め、挨拶の為に一度は机にのせた本や資料を再び抱えようとした瞬間…ペイオースの目が一番上のパッドに止まった。 「あら…それ…」 「え?」 「ウルドのものじゃありませんこと…どうしてあなたが持っていらっしゃるの?」 「ええっ?」 「その色は管理限定に与えられるものですもの。…それに忘れようにも…忘れられない…ものですしね」 フレイアはがっくりと肩を落とした。遅刻した上に…パッドの持ち主まで一瞬にして見抜かれてしまっては…もう内緒も隠し立てもあったものではない。 エメラルドグリーンの瞳に覚悟を決め、スクルドとのハプニングを正直に語り始めた。 「まあ…そうでしたの。それは災難でしたわね」 怒られるかと思っていたのだが、以外にもペイオースの言葉には同情の色が濃く現れていた。何かと破天荒な姉妹には…むしろ巻き込まれた方が大変なのだと…己の経験上、よく理解している。 「それにしても…ウルドったら…」 シャンパンゴールドのパッドを見つめてペイオースが呟いた。真新しいそれは、一度も使われた形跡がない。自分もパッドを使わなくなってどれくらい経つだろう…ペイオースは懐かしそうに黒い瞳を細めた。 「…そう…あれは…まだ私が一級神になる前の頃…ちょうどあなたと同じ、準一級の試験に通ったばかりの時でしたわ…」 褐色の肌を持つ、自分とは正反対の女神ウルド…彼女の悪戯っぽい顔がパッドに重なる。 「昔話よ。お聞きになりたい?」 「はい。ぜひ」 青い空に白亜の塔が煌めく。 暖かな陽の中、ユグドラシルはゆっくりと時を刻んでいる。 地上に吹く風は、春の色を運び始めていた―。 イラスト:松原秀典(初終-First End-より)
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