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時代背景

写真イメージ

第1話 昭和30年(1955年)「高度成長が始まった年」

敗戦から10年後の昭和30年。日本はこの年から、石油ショックまでのおよそ18年間にわたり、国民総生産(GNP)年率10%台の驚異的な成長を続けました。“東洋の奇跡”と呼ばれた、高度経済成長の始まりの年であり、戦後日本の青春時代ともいえるでしょう。
この年の5月18日、「官僚たちの夏」第1話のモチーフとなる、通産省の「国民車構想」が明らかになりました。「4人乗り、最高時速100キロ、大がかりな修理なしで10万キロを走れる車を開発して25万円で売るならば、国家補助して国民車に育成する」という構想です。
「官僚たちの夏」のドラマ化にあたって、この構想の原案を書いたご本人、元通産省自動車課技官の方にお話を伺うことができました。現在85歳になる方です。その方の証言によると、この構想は正式に発表されたわけではないとのこと。省内での組織決定を待たずに、通産省幹部が構想案を、新聞記者の目に付きやすいよう、わざと机上に放置したそうなんです。いわゆる、意図的に情報を漏らす“リーク”で、その狙い通り、新聞に大きく扱われて大騒ぎになりました。その騒ぎの中、当時の自動車課長は「世の中を騒がすぐらいでなければ、事態は前に進まない」と落ち着いていたそうです。

なぜ、当時の通産官僚は、このようにある種強引な形で構想を進めようとしたのでしょうか? それは、乗用車をめぐる環境が、現在とは全く違っていたからです。敗戦後、あらゆる産業はGHQ(進駐軍司令部)の管理下におかれ、乗用車生産は昭和24年まで禁止されていました。その後も、産業復興のためトラックなどの生産が優先され、国内を走る乗用車といえば外国製ばかりで、それもごく一部の大金持ちが乗っているだけでした。また、当時の日本銀行総裁は「産業は、それぞれの国にふさわしいものを」と、国産乗用車の不要論を強く主張していました。乗用車の年間生産台数は、現在の400分の1にも満たず、日本はまだとても貧しかった時代です。

こうした時に突如世に出た「国民車構想」は、発案者の予想を越える反響と、そして反発を招くことになります。財政当局が冷淡なだけでなく、当の自動車業界も当惑しました。なによりも、戦争で多くの優秀な技術者を失った日本に、そんな車の開発が可能なのか…という思いがあったのです。
先の自動車課元技官は「そんなことできるはずない、と言われ続けたのを、今も良く覚えています」と、当時を振りかえって苦笑いされていました。
それは、言い換えれば、現代と同じように、日本人が自信も誇りも失っていた時代だったともいえるかもしれません。 さて、波乱の「国民車構想」は、いったいどうなるのか? 経済成長を目指す通産官僚たちには、どんな試練が待ち受けていたのか!? この先のストーリーは「日曜劇場 官僚たちの夏」第1話をご覧いただければ明らかになります。どうぞお楽しみに!