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お江戸マメ知識

まるで本当に見てきたかのように「江戸のアレコレ」を語ってくれる、時代考証の山田順子先生。このコーナーでは毎週、そんな山田先生に“気になるシーン”について解説していただきます。

床に伏せっている初音を診察している仁。「中条流?」「子を流す専門の医者でおざりんす」

山田先生

このコーナーで以前、「江戸時代には“女性が医術に関わるというのはタブー”だと考えられていた」ということはお話したと思うんだけど、当時「女医者」と呼ばれていた人たちがいたのはご存知かしら?女医者とは、婦人科の先生(男性)のこと。婦人科の先生というのは、かなり古い時代から宮中や大名の夫人たちの出産に関わる存在であったのだけれど、江戸の後期になると、生活も豊かになった庶民たちが難産の際、彼らに診察をお願いするケースも出てきたの。
この時代には帝王切開といった出産方法がまだなかったから、赤ちゃんが生まれそうなのになかなか取り出せず「このままでは母体がダメになってしまう」と判断された場合は、赤ちゃんを諦めるしかなかったのだけど、その時に強引に流産させるために処方する薬を開発したのが「中条流(ちゅうじょうりゅう)」という産婦人科の流派。それがもとで、いつのまにか堕胎専門医が総して「中条流」と呼ばれるようになったのね。ところがこの薬には水銀などが含まれていて、服用すると必ず母体にも悪い影響を及ぼしたそうなんだけど・・・子供を孕んでしまうと仕事にならない遊女たちは、この薬を重宝していたというわ。
“なぜ、中条流が金持ちなのか”って?彼らのところには、遊女のほかにも“火遊び”で子を孕んでしまった大名夫人などもやってくるものだから、みんな口止め料込みで言い値を払うのよ。普通の診療代の何倍もの金額を払っていくから、通常の医者より金を貯えていたんじゃないかしら。

澤村田之助に懇願している仁と龍馬。田之助、煙管をぽんと置き、「400両ねぇ。そんな大金がここいらに転がってるとでも?」

山田先生

当時の幕府は、庶民のスター的存在であった歌舞伎役者たちを「畑を耕したりすることなく、見せ物をして金を稼ぐけしからんやつら」と認識して危険視し、彼らに憧れてそのマネをする人々が増えないようにと警戒を強めていました。その対応策として、幕府は彼らを蔑視。歌舞伎役者たちに対して「出かけるときには頭に笠をかぶれ」「絹を着用するな(着物の布地の制限)」「吉原等の歓楽街へ立ち入ってはならない」「芝居小屋の近くの定められた場所にしか住んではいけない(住む場所の指定)」などといった厳しい規制を設けて、庶民たちが憧れを抱かないようにしたってわけ。
澤村田之助というのは歴史上に実在する人物で、1年に千両を稼いだといわれている伝説の役者。今でも彼の姿を描いた錦絵はたくさん残っているんだけど、プロマイドがたくさん売られていたということは、それだけ人気のあった役者であるということの証といえるのではないかしら。
ちなみに、このドラマの中では「女形」を「おんながた」とわかりやすく現代風に読ませているけれど、本当は「おやま」と読むのが正解よ。

この時代には、戸籍制度のようなものはあったのでしょうか!?教えてください。

山田先生

江戸時代には戸籍制度というものはなかったんだけれど、住民登録的な発想はあったわ。特に、江戸では「自分の町のことは自分の町で管理するように」という幕府からのお達しがあってね。それぞれの町の役人が自主的に、住んでいる人たちのことを把握していたの。江戸には実に1000以上もの町が存在していたんだけれど・・・ひとつひとつはそうね、TBSのある赤坂でいうと「赤坂一丁目でひとつの町」ぐらいの規模と考えるとわかりやすいかしら。それぞれの町には町役人が設けた「自身番」という場所が設置されていたんだけれど、そこでは交番の役目や区役所の出張所のような役目を果たしていて、庶民たちが旅行に出かけるときにも、パスポートのようなものを発行したりもしていたのよ。江戸の人たちは自由気ままに暮らしていたように見えるかもしれないけれど・・・実は、徹底的に管理されていたの。
ちなみに、誰かが事件を起こしたとき・・・その人に付き添って出頭する義務があったのも、この町役人と大家さん。この当時、大家さんは住人の保証人のような存在だったし、町役人は「この人はうちの町内の○○です」と証言するために出頭する必要があったのよ。

山田先生への質問は締め切りました。たくさんの質問をいただき、ありがとうございました。