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過去の放送 出演者 時事放談「サロン」 テレビプロデューサーの日々
 
 

「日本の一番いいところが…」

渡部: これはぜひ聞いていただきたいんですけど。私も長い間自民党におって、自民党が国民の皆さんから信頼されて長期政権を続けることができたのは、自民党の中にハト派とタカ派がおって、自民党の中で2大政党みたいな役割を果たした。そしてハト派が田中・大平派、どちらかといえばタカ派が福田派。そして大体この40年の政治の実権はハト派が握ってきたんですよ。それで平和を愛し、二度と戦争の苦難を味わわない日本の方向が進んできているんですね。ところが、最近、自民党がタカ派になっていくんじゃないかというのが俺は心配だなあ。

日本が朝鮮戦争以後やっぱり軍事力を持たなくちゃならないというのは、国民みんな理解している。しかしやっぱり、あの戦争で苦しんだ結果、あの平和憲法をつくったんだから。その平和憲法の枠の中で警察予備隊が自衛隊になって、これは非常に国民の知恵だと思うんですよ。それを、こっちだ、あっちだとやっちゃったのでは、日本が、日本の一番いいところがなくなっちゃう

議員会館の部屋は、しばらくすると渡部氏のチェーンスモーキングの煙で霞がかかったようになってきた。肺がんの検査をしたことのある私は、その怖さが身にしみており、いつもは打ち合わせを手短に退散することにしているのだが、なんせ43年分の思いを語っている渡部氏を前にそうもできない。そして、「こんな破れかぶれ解散、ひでえなあ。野田はあと1週間もすればクビにされると思ったんだろうなあ」とぼやいた。鳩山由起夫氏、菅直人氏、野田佳彦氏と3代の総理大臣のすったもんだの果てに3年3か月で終わった民主党政権。足元の「小沢系」と「反小沢系」の対立、そして過半数を持たない参議院での自民党からの問責決議の連発をはじめとする「ねじれ問題」でのゴタゴタの連続と「立ち往生」で、すっかり国民から見放されてしまった。普天間移転問題での鳩山総理の失態に始まって「政権交代の価値」を見せることなく、民主党政権が終わる。なんとか、国民の信頼を取り戻してからの選挙で「傷を小さく」しようと思っていた渡部氏は、今回の選挙が許せない様子だった。「野田が消費税を仕上げたということで身を引けば、まだやりようもあったのに」とも語った。

これまでは議員宿舎に住んでいたわけで、これからどうするのかと水を向けると、「福島に帰るだあ」と言う。驚いて「東京に住まないのですか」と言うと、「そんなものついにできなかったなあ。まあ、サラリーマンでも東京に家、持ってるっちゅうのになあ」と言う。そして、今後の連絡は玄葉光一郎事務所の、玄葉氏のお姉さんの秘書にしてくれと言うと、受話器を取りその「お姉さん」に向かって、「今後『時事放談』から連絡あったら繋いでください。お願いしますっ」などと電話をした。打ち合わせが必要になれば、事務所も東京には置かないから、玄葉氏の議員会館の部屋でやろうと言う。そして、「うちは秘書もいなくなっちゃうから」と少し寂しそうに語った。「今度、福島で会おう」と話を締め括った。決まって「君、知ってるかあ」と始めて口癖にしていた、蓄財に走らず、国民のための政治を目指し、最後は井戸塀しか残らないという「井戸塀政治家」を目指すべきだと言っていたのは、言ってるだけではなかったのだと知った。

渡部氏の懸念どおり民主党は選挙戦で国民からそっぽを向かれ、惨憺たる状況に陥った。まさに「やぶれかぶれ解散」の真骨頂だった。守られたのは「近いうち解散」の野田総理が「嘘つきではない」ということだけで、民主党は崩壊状態だった。「決められない政治」に怒った有権者は、「決める」ことに関心が向き、「正しいか否か」は論点からはずれていった。そして選挙戦では財政再建は脇におかれ、景気への「魔法の杖」のような主張が広がった。「コンクリートから人へ」「NPOも巻き込んだ『新しい公共』」。民主党候補自身さえ自信を失い、そんなことを街頭で言えなくなっていたし、言っても届かなくなっていた。民主党は230議席がなんと57議席となり、自民、公明は合わせて325議席となった。


数日後、いたたまれなくなって、昼下がりに電車を乗り継いで埼玉県所沢に向かった。

悩んだりするとどうしても足が向いてしまう。入り口で花を買うと「いってらっしゃいませ」と言ってくれる。昼でも底冷えのする日なのだが、狭山丘陵の空は澄み渡り、手入れをされた低木を両脇にした緩やかな坂を上っていくと心は落ち着いてきた。その墓石はあの人らしい薄いグレーで「筑紫家の墓」とあった。脇の「無量院釋哲也 平成二十年十一月七日没 筑紫哲也 行年七十三歳」との文字に、もう4年もたっていたんだと思った。最近、誰かも来たのだろう。まだ新しいスイートピーと缶コーヒーが供えてあった。「筑紫さんがコーヒー好きなのを知っている人だな」と思ったりした。赤いカーネーションと、駅前で買った赤ワインを供えた。そして、線香に火をつけ、ひとしきり水をかけたりなどして、手を合わせると「おお、元気でやってるか」と筑紫さんは話しかけてくれた。『NEWS23』に加わった縁で、その後もいろいろ相談させてもらったが、そんな時と同じ笑顔だった。赤ワインを口にしてそこで、しばらく筑紫さんの本を読みながら時間を過ごした。

その本の中で、学生時代にピースボートを立ち上げ、当時、『朝日ジャーナル』編集長として取り上げて以来の仲である辻元清美氏のインタビューが目に留まった。96年に社民党の土井たか子党首から突然、衆院選の出馬を求められ、引き止めてもらおうと思って会いに行ったら、筑紫さんが「やれ。沈みかけている泥船だからこそ乗って、市民の政党に変えろ」と言ったというのだ。後に政策秘書の給与問題が浮上し、その際の筑紫さんの発言が批判された時は、「俺には政治家・辻元清美の製造元責任がある」。そして、病気を知ってお見舞いに行きたいと言うと「選挙で勝って政権交代を実現させてからこい」と言ったというのだ。

そして、友人で歌手の石川さゆり氏のインタビューは題して「口癖は『何か楽しいことしようよ』」。「みなさんが元気だったころ、話していたんですよ。『みんなで同じお墓に入って、あの世でもドンチャン騒がない?』って。だから今ごろ、きっとあちらでみなさんと合流して、もう始めていらっしゃるんじゃないかしら。『何か楽しいことしようよ』。そんな口癖の筑紫さんでしたから」。(※『筑紫哲也』[週刊朝日MOOK] 09年刊、朝日新聞出版)

顔を上げると、西に傾いた太陽からの強い日差しが墓石に反射していた。「また救ってもらいました」、そう言って丘を下った。夕焼けの照らす砂利道を歩きながら新しい年を走り抜ける勇気がよみがえっていった。


※本原稿は調査情報1〜2月号に掲載されています。

石塚 博久 (いしづか ひろひさ)
'62 東京都足立区生まれ。早稲田大学卒業後、'86日本経済新聞社に入社。大阪、名古屋、仙台支局(このとき、「みちのく温泉なんとか殺人事件」に出るような温泉はほとんど行った“温泉研究家”でもある)に。
東京本社政治部で政治取材の厳しい(「虎の穴」のような)指導を受け、新聞協会賞(「閣僚企画」共著)も。
'96TBS入社後は、報道局政治部記者、「NEWS23」のディレクターを経て、「時事放談」制作プロデューサー。

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