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「世界一の漁師」から「世界一の魚屋」へ!

年間売り上げ7500億円、グループ企業168社(国内109、海外59)、従業員数1万人と、まさに大企業のマルハ。

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創業は明治3年(1880年)中部幾次郎が引き継いだ家業の林兼商店という小さな鮮魚店でした。その後、林兼商店は南氷洋への捕鯨や、大船団を組んで遠洋漁業への進出と、半世紀をかけて日本一の漁業会社に成長していったのです。
創業時から使用していた商標がこの、丸に「は」のマークで、これには波を丸くおさめるという願いが込められていました。

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1945年、敗戦の年に大洋漁業株式会社と社名変更、戦後の食糧難を世界中の海から取ってきた鯨や魚で救ったのです。戦後、大洋漁業の業績は爆発的にアップしてゆきます。
なぜなら、マルハグループの中部謙専務によると、世界中の海から魚は取り放題で、獲れば獲るほど儲かっていたから!最高では、600隻の船を所有するまでに!船団はどんどん巨大化していきました。

漁業は日本の食卓を支える貴重な第一次産業。今でも新聞の株式欄をみればそのことがわかります。最初に表示されているのが、水産、農林に関する会社なのです。
もちろんマルハもありました!

1977年、世界一の漁業会社に成長していた大洋漁業に大きな試練が訪れます。業界のみならず、日本中を揺るがしたある協定が世界各国で結ばれたのです。
それが、200カイリ協定!もともと世界の海は、狭い領海と広大な公海の2つがあって、この公海では魚は獲り放題だったのが、77年から各国が沿岸200カイリ水域での操業をきびしく管理することになったのです。

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つまり、豊富な魚場はほとんどが200カイリ水域内にあって、今までのように自由に魚を取れなくなりました。世界一の漁師企業が創業以来の大ピンチを迎えたのです。
80年代以降、生き残りをかけて経営の多角化に乗り出した大洋漁業はゴルフ場の運営やマンション販売、さらにはミンクの毛皮コートの販売など様々な事業に参入しました。
しかし、これがすべて大はずれ!みるみる業績は下がっていきました。
93年に「マルハ株式会社」と社名変更してからも苦しい経営環境は続いていました。

このマルハの危機を救ったのが、2000年に当時の日本興業銀行から幹部役員として迎えられた五十嵐勇二でした。

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五十嵐は次々と不採算部門を整理縮小、経営システムの合理化など大胆なリストラに着手したのです。中でもメディアを賑わせたのが、50年前大洋漁業時代に設立した大洋ホエールズ、現在の横浜ベイスターズの売却でした。
そんな中、五十嵐が掲げたマルハ再建のキーワード、それが「世界一の漁師」から「世界一の魚屋」へ!

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